◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

第2回 エミシとは誰か

 蝦夷というのは、文献上では『日本書紀』に出てくるのが最初で、同時代に書かれた『古事記』や各地の『風土記』には一切登場しません。『日本書紀』に描かれた蝦夷は、東国に住む未開で野蛮な人びとで、朝廷に服属するべき人びととされます。なぜそういう存在として描かれたのかというと、それには『日本書紀』が編さんされた7世紀後半から8世紀初頭における日本を含めた東アジアの政治情勢と日本の「お国の事情」が背景として横たわっています。そのため、少し回り道に感じるかもしれませんが、『日本書紀』の正式リリースである720年よりも少しさかのぼって政治情勢を述べます。なお、当時はまだ日本は自らの国名を「日本」とは称しておらず対外的には「倭」です。また、「天皇」という称号もなく、倭国のトップが「大王(おおきみ)」と呼ばれていた時代です。

 

 さて、日本の古代においては、いくつかの歴史的画期が認められますが、その中の一つとして「大化改新」が挙げられます。

 

 6世紀後半から蘇我氏が力を付け、7世紀に入った頃には政権の首班を務めるまでに権力を拡大していたのですが、蘇我氏と競合していた大王家の軽(かる)が甥の中大兄(なかのおおえ)や廷臣の中臣鎌足(なかとみのかまたり)らと共謀して645年6月12日にクーデターを敢行し、当時の政権首班・蘇我入鹿(いるか)を殺害し、その父蝦夷(えみし)を自殺に追い込みました。この政変を645年の干支をとって「乙巳の変(いっしのへん)」と呼びます。このクーデターにより軽は王位に即位し、のちに孝徳天皇と呼ばれることになります。これを便宜的に孝徳政権としますが、孝徳政権の政策の特徴としては、地方支配のより一層の強化を目論んだことが挙げられ、とくに東国に対してはその印象が強いです。

 

 当時、地方には国造(くにのみやつこ)と呼ばれる在地の豪族が半分公務員で半分独立勢力のような形で君臨していたのですが、孝徳政権は彼らを国家の一員として取り込むべく彼らの土地を「評(こおり)」という行政区画に編成し、評造(こおりのみやつこ)という今でいう地方公務員に再編します(これを「天下立評」と呼びます)。国造からすると、既得権益が奪われますから彼らは相当反発したと予想され、そんなにスムーズには孝徳政権の思惑通りにはならなかったと考えられますが、以下に述べるように未曾有の国難の襲来により国造らも協力するようになります。

 

 660年、友好国であった百済が滅亡し、その直後の663年に倭国は百済の遺臣を支援して朝鮮半島に遠征、白村江で唐と新羅の連合軍と戦い大敗します。これにより倭国は朝鮮半島での足場を完全に失い、なおかつ唐・新羅が列島に攻め込んでくるかもしれないという危機にさらされました。倭国は西日本の要所に城を築き防備を固めますが、665年9月には、唐は劉徳高や郭務悰ら総勢254人を倭国に遣わし、彼らは12月まで滞在します。つまり、唐は戦勝国として倭国に乗り込んできて、戦後の処理をしていたわけです。まさしく先の大戦後のGHQのようですが、この時点で倭国が唐の植民地となった形跡は見られません。

 

 667年3月には、天智天皇(正確にはまだ即位前)が都を近江の大津宮に遷します。唐の脅威に応じるためでしょう。翌年、天智は即位し、それから数年の間に列島各地の駅路(地方の有力豪族の拠点同士を結ぶ道)の整備が進められ、有事の際に各地の軍勢が機動しやすいようにします。

 

 しかしこうした中、669年あるいは671年には、郭務悰が今度は2000余人という大人数を率いて来倭します。これだけの人数なので武力を背景とした進駐、つまり植民地化の第一歩とも考えられますが、この頃倭国は西国の防備を固めており武装解除はしていないので植民地化はされていません。そして倭国は内政の充実を図り、670年2月には日本初の全国的規模の戸籍である庚午年籍が造られ始めます。『古代の道路事情』では、百済の遺臣を多く召し抱えたことにより、地方に漢字の読み書きが急速に普及して戸籍の作成を可能にしたと述べています。なお、既述した通りこれまでの地方は国造(くにのみやつこ)と呼ばれる地元の有力者が治めており、朝廷は直接的に地方の民をコントロールすることはできなかったのですが、国造から評造に編成されて不満タラタラの地方の有力者も未曾有の国難に直面し朝廷に協力する必要が出てきたため、戸籍の作成に協力したのだと考えられます。戸籍の作成は地方の有力者にとっては権力や権益を大きく失うことになるのですが、倭国が滅んでしまっては元も子もないので、新しい言葉でいえば挙国一致というか、背に腹は代えられなかったわけです。これにより、朝廷は国家が直接一般住民から徴税や徴兵をできるようになる道を開くことができました。

 

 そして671年12月、古代の日本において国際的には最大の危機を経験した天智天皇が崩御、翌年の壬申の乱を経て673年に天武天皇が即位します。天武は地方支配を一層進め、さきの敗戦の屈辱をなんとか晴らそうとし、倭国を唐並の近代国家にするべく、681年には大きなプロジェクトを3つ開始します。すなわち、唐の律令制の本格導入と新たな都を作るための調査の開始、それと日本の歴史を記した書物の編さんです。このとき編さんが開始された書物が、のちに『日本書紀』として結実するわけです。なお、日本という国号と天皇という称号が生まれた時期に関しては諸説ありますが、天武天皇の在位時という説を本稿では採用します。

 

 さて、『日本書紀』の編さんが開始されるまでの政治情勢について長々と述べてきましたが、天武天皇は唐に対して対等に付き合っていくことを望みます。そのため、その有力な論拠の一つとして位置づけられる『日本書紀』は当然ながら「日本は凄い!」ということを強烈にアピールする内容となっています。対象読者はもちろん日本の貴族なのですが、むしろそれよりか唐や朝鮮半島の国々の支配者層に読んで欲しいと思ったに違いありません。そのため、当時の日本には中国と同じく国家の周辺に北狄(ほくてき)・東夷(とうい)・西戎(せいじゅう)・南蛮(なんばん)といった文化の低い異民族が住み、それらを服属させ朝貢させるという設定が必要だったのです。したがって、『日本書紀』が編さんされた時点で、まだ北東北には朝廷の支配が及んでいなかったため、北東北の太平洋側の人びとを東夷とし、日本海側の人を北狄として、彼らが年ごとに朝貢してきて、また悪さをする場合は討伐するという内容を織り込むようにしたわけです。彼らは『日本書紀』での記述では、東夷が「蝦夷」、北狄が「蝦狄」とされました。ちなみに西戎と南蛮も必要ですが、西戎は当時の南九州で勢力を張っていた隼人に設定し、南蛮はおそらく九州南方の離島の人びとに設定したと思われます。

 

 つまり、蝦夷と呼ばれた人びとは、7世紀後半から8世紀初めの段階でたまたま北東北に住んでいた人びとが朝廷の都合でそう呼ばれるようになっただけなのです。したがって、蝦夷という言葉は極めて政治的な言葉であって、当時この言葉を知っているのはおそらく貴族以上の人びとだけであり、一般人は蝦夷の存在は知らず、蝦夷と呼ばれた北東北の人たちも、まさか自分たちが「そういうことにされてしまった」ことは知らなかったと思います。そして重要なことは、蝦夷と呼ばれた人たちのほとんどは現代の日本人で多数派を占めるヤマト民族だということです。

 

 ではなぜ、まだ国家の領域に入っていなかった北東北にヤマト民族が住んでいたのでしょうか。それについてはさらに時間を遡らせて説明する必要がありますね。

 

 次回は蝦夷と政治的に呼ばれた人たちの具体像に迫るとともに、古代の北東北について簡単に述べてみようと思います。

 

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【参考資料】

  • 『日本書紀(下) 全現代語訳』 宇治谷孟/著 1988年 
  • 『新版[古代の日本]9 東北・北海道』 1992年
  • 『古代の道路事情』 木本雅康/著 2000年
  • 『県史3 岩手県の歴史』 細井計・伊藤博幸・菅野文夫・鈴木宏/著 2009年
  • 『ものが語る歴史25 蝦夷とは誰か』 松本建速/著 2011年
  • 『アイヌ学入門』 瀬川拓郎/著 2015年

 

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