◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

第3回 北東北の古代史

 1万年以上も続いた縄文時代の日本列島には外からはほとんど人は入ってこなかったため、北海道から九州まで、形質的(すなわち見た目)には同様な人びとが住んでいました。縄文時代においては、北東北の人もヤマトの人も同じ縄文人です。それが稲作が列島内に導入され、弥生時代が始まると、稲作はまたたく間に青森県の津軽地方まで北上します。ただし、たまたま津軽地方は対馬暖流の影響で気候が良くて稲作を受容できただけで、太平洋側では弥生時代の半ばになってようやく福島・宮城県域で稲作が始まり、どうやら岩手県や青森県の東側には普及しなかったようです。ヤマセが吹く地方では稲作は無理だったのでしょう。ここまでがおおよそ、紀元前までの話です。

 

 稲作が広がったということは、紀元前にはヤマトの人びとが東北各地に進出したということになります。ただし、北海道にまでは渡らなかったようで、北海道にいた縄文人、すなわちアイヌの祖先の人たちはあまりヤマトの影響を受けていません。なお、ここで「アイヌの祖先」というようにわざわざ「祖先」を付けているのは、正確にはアイヌというのは中世以降の呼称であるのでそうしたわけですが、以降は煩雑さを避けるため、単に「アイヌ」と呼ぶことにします。

 

 本州地域では3世紀半ばの有名な卑弥呼の死後から古墳時代になるわけですが、アイヌのさらに北に住んでいたオホーツク人(中世の頃に他の民族と同化し消滅)が北海道沿岸を南下し始め、それも要因の一つでアイヌたちは4世紀には北東北に移住します。アイヌは単に交易にやってきただけでなく、本格的に引っ越してきたわけです。

 

 その頃の北東北は気候の寒冷化のため稲作が継続できなくなり、かなり人口が希薄になっていたようです。岩手県にも縄文遺跡はたくさん残っていますが、弥生時代の遺跡は少なく、古墳時代になるとほとんど集落遺跡が見つかっていません。ところが、アイヌは稲作に依然していないため、稲作をしなくても北東北の地でも伸び伸びと暮らせるわけです。そしてそのときに現在の北東北に多く残っているアイヌ語地名である「ナイ」のつく地名が命名されました。「相内」とか「沼宮内」とか「伊保内」とか挙げたらきりがないくらい沢山残っていますよね。

 

 当時の日本列島は、畿内に強力な政権(ヤマト政権、ヤマト王権、大和朝廷などと呼ばれる)が存在し、列島各地の豪族たちに前方後円墳の構築を許可することによって影響力を高めており、それを前方後円墳体制などと呼ぶこともあります。東北地方の前方後円墳の分布を見てみると、福島県会津若松市の会津大塚山古墳(墳丘長114メートル)は4世紀後半の築造とされ、東北地方最大の宮城県名取市の雷神山古墳(墳丘長168メートル)は5世紀後半の築造とされます。

 

雷神山古墳 探訪レポートはこちらにあります

 

 また、列島最北端の前方後円墳である岩手県奥州市の角塚古墳(墳丘長45メートル)も5世紀後半の築造とされていますが、角塚古墳は一基だけ北に飛び出した位置にあり、胆沢地方には5世紀後半のほんの一時にだけ影響が及んだと考えた方がよく、実質的には太平洋側では宮城県北部の江合川のラインまでが朝廷の影響力が及ぶ範囲で、その範囲が「前方後円墳体制」に組み込まれた地域と考えていいでしょう。ちなみに胆沢地方にこの次に古墳が現れるのは7世紀になります。

 

 現代の宮城県と岩手県との県境には山地が展開しており、宮城側からそれを越えると岩手県一関市に入り、そこより北は北上川流域の広い平野が展開して行くわけですが、その北上平野はまさしく別天地で、地形的なものだけでなく、「何か」が畿内の政権の北上を妨げていたものと考えられます。その「何か」とは何か。それを含めて、岩手県と青森県東部の歴史には壮大なロマンが含まれており、それについてはまた稿を改めて記述することがあるでしょう。なお、面白いことに日本武尊の伝承は前方後円墳が及んだ範囲の最北である岩手県奥州市が北限なのです。

 

 さて、畿内の政権の北上と同じ時期、アイヌたちも南下をつづけ、アイヌは宮城県にまで移住を果たします。それが6世紀の頃で、各地に残るアイヌ語地名の「ペツ」(あるいは「ベツ」)はこのときに付けられました。6世紀までには、朝廷(この頃には朝廷と呼んでも遜色ないと考えます)は全国の地方の有力豪族たちを国造に任じ、宮城県域にも国造が存在したことから、当時の宮城県は国造によって支配される原住民(元々いた縄文人が西からの影響を受けて生活していた)以外にもアイヌも住みつき、また朝鮮半島からやってきた渡来系の人びとも活躍していたようです。非常にインターナショナルな様子が想像できますね。

 

 ただ、そのインターナショナルな状況も長くは続かず、6世紀のうちにはアイヌたちは北海道に撤退しました。やはり、ヤマト民族の圧迫を受けたのでしょうか。ただし、考古学的に見ると北海道に撤退したと見えるだけで、おそらく山間地には多くのアイヌが住みつづけたはずで、それらの遺跡が発見されていないだけだと考えます。アイヌとヤマト民族は住み分けができたはずです。

 

 そして7世紀に入ると、岩手県内の人口は爆発的に増えます。メインの場所は大河・北上川の支流沿いになりますが、関東地方などから沢山の移住者が来ているようです。645年の大化改新以降は朝廷が積極的に東北に進出するようになるわけですが、ことに斉明天皇のときに行われ、『日本書紀』にも掲載されている阿倍臣(阿倍比羅夫)の北方巡察(658年)は当時の国家事業を語る好材料となります。阿倍臣は船団を率いて日本海側を北上したのですが、『日本書紀』に記載はないものの、同時に太平洋側にもそういったことが行われたことは確実です。というのも、初期の陸奥国府と目される郡山遺跡などがその頃に築造されているからです。ただしそれも、岩手県域まで国家の手が伸びた形跡はなく、むしろ岩手県域まで進出した人びとは、政府の援助を受けずに個人的に行った人が多いと考えられます。つまり、彼らは開拓者精神を持って新天地を求めて移住した人たちであり、例えば犯罪を起こして国家の領域に居られなくなった凶悪な人や、ビジネスチャンスを求めて行った商人、そしてもちろん、生活する上では様々な技術を持った人が必要なので、鍛冶を含めた職人なども新天地を求めて北へ向かったはずです。そして、後年になって彼らの直接の子孫が国家により「蝦夷」と認定されてしまい、朝廷と戦ったわけです。蝦夷は相当強かったようですが、上述のようなフロンティア精神に溢れる精神・肉体ともに強靭な人たちの子孫によって構成されているわけなので、その人たちが戦争に弱いわけはないのです。さらに言えば、その血筋が現代の東北人に繋がっていることも容易に想像できます。

 

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【参考資料】

  • 『日本書紀(下) 全現代語訳』 宇治谷孟/著 1988年 
  • 『新版[古代の日本]9 東北・北海道』 1992年
  • 『県史3 岩手県の歴史』 細井計・伊藤博幸・菅野文夫・鈴木宏/著 2009年
  • 『ものが語る歴史25 蝦夷とは誰か』 松本建速/著 2011年
  • 『アイヌ学入門』 瀬川拓郎/著 2015年

 

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