◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

第5回 東北差別の根源

 「第4回 「エミシ」という発音に悪意はあるか」で述べた通り、『日本書紀』に「エミシ」という言葉が現れるのは初代神武天皇のときですが、次に現れるのは景行天皇のときです。景行は12代目の天皇とされており、実在に関しては裏付けは取れないものの、『日本書紀』には以下のようなことが記述されています。

 

 景行は、側近である武内宿禰(たけしうちのすくね)を北陸と東方諸国の視察に派遣します。武内宿禰は2年後に帰還して、「東国のいなかの中に日高見国があります。その国の人は男も女も髪を椎(つち)のような形に結い、体に入墨をしていて勇敢です。これらをすべて蝦夷といいます。また土地は肥えていて広大です。攻略するとよいでしょう」と献策しました。このときから表記が「蝦夷」になっています。

 

 武内宿禰のセリフは、やはり8世紀初頭の世相を反映しています。そして朝廷は東北地方に幻の日高見国を見ていたようです。朝廷が思い描く日高見国は、8世紀初頭の段階では、北上川流域の岩手県南部か北上川河口の宮城県北部あたりでしょう。なお、北上川の「キタカミ」と日高見国の「ヒダカミ」の語源が一緒だと言う説もあり、「北上河」の文献上の初見は『吾妻鏡』の文治5年(1189)9月27日の条で、平泉の藤原泰衡を討った源頼朝が帰還する際の記述においてであるので、当初「ヒダカミ」だったのが中世初頭の時点では「キタカミ」に変化していた可能性を考えても良いと思います。

 

 武内宿禰の東方への視察の足跡、というか伝承は福島県にまで残っています。福島県いわき市小名浜の住吉神社は、『延喜式』神名帳(延長5年<927>にまとめられた神社の一覧)に記載された全国で7社ある住吉神社のひとつで、この地が陸と海との要害で東北の関門にもあたるということで、航海安全と国家鎮護のために武内宿禰が東北総鎮守として祀ったといいます(『日本の神々12』)。

 

 さて、武内宿禰の献策に対して景行は、自分の子の日本武尊(やまとたけるのみこと)に東国平定(蝦夷討伐)を命じました。

 

 景行が日本武尊に向かって言うには、「かの東夷は性狂暴で、陵辱も恥じず、村に長なく、各境界を犯し争い、山には邪神、野には姦鬼がいて、往来もふさがれ、多くの人が苦しめられている。その東夷の中でも、蝦夷は特に手強い。男女親子の中の区別もなく、冬は穴に寝、夏は木に棲む。毛皮を着て、血を飲み、兄弟でも疑い合う。山に登るには飛ぶ鳥のようで、草原を走ることは獣のようであるという。恩は忘れるが怨みは必ず報いるという。矢を髪を束ねた中に隠し、刀を衣の中に帯びている。あるいは仲間を集めて辺境を犯し、稔りの時をねらって作物をかすめとる。攻めれば草にかくれ、追えば山に入る。それで昔から一度も王化に従ったことがない。云々」

 

 このセリフは差別に満ち溢れており、「冬は穴に寝、夏は木に棲む」というのは考古学の成果からして信じられないでしょう。また、「一度も王化に従ったことがない」という言葉は矛盾しています。というのは、『日本書紀』は、日本武尊の出陣の前の記事として、「蝦夷が叛いた」と記しているからです。叛いたということは、すでに王化に従っていたということでしょう。

 

 結局、8世紀初頭における政治的な理由での東北地方への歪んだ眼差しが、その後長く続く差別の根源になったと考えられます。

 

 さて、景行の命を受けて出陣した日本武尊ですが、まず東海道に入り、駿河(静岡県)で敵の火攻めにあいます。『日本書紀』にはそのときの敵対勢力は単に「賊」と表現されていますが、谷川健一氏は『白鳥伝説』のなかで、その賊とは蝦夷のことであると推測しています。というのは、本居宣長の『古事記伝』が引く『駿河国風土記』という書に、浮嶋原と阿倍市にいた「東夷」が火を放ったという文章があるからです。

 

 谷川氏は、その東夷とは蝦夷のことであり、地名の阿倍は、後世の奥六郡(岩手県中部)の俘囚(ふしゅう。朝廷に帰順した蝦夷)の司・安倍氏と関係があるのではないかと考えています。なお、駿河国府の官人(役人)の中に、伊奈利臣(いなりのおみ)という氏族がいて、『静岡市史』は、それは『日本書紀』の持統天皇10年(696)3月12日条に見える、越の渡島の蝦夷、伊奈理武志(いなりむし)と関連すると見て、駿河の伊奈利臣は蝦夷であったのではないかと推測しています。

 

 そういったことから、谷川氏は、駿河国の安倍郡に蝦夷がいたことがほぼ推察できるとしています。

 

 このように、駿河の国に蝦夷が盤踞していたという説は、谷川氏の推測に過ぎないわけですが、蝦夷とはそもそも政治的理由で日本書紀編纂時にたまたまた北東北にいた人たちに付けられたラベルのようなものですから、駿河国には当てはまりません。ただし、縄文文化をかたくなに守り、弥生文化を受け入れなかった人びとが静岡県にいたとしても、それは全然不思議ではありません。

 

 さて話を元に戻すと、日本武尊はその後関東を通り陸奥国(国名としての「陸奥国」という意味ではなく、今の東北地方を指す)に入り、海路から葦浦に回り、玉浦を横切って蝦夷の支配地に入りました。

 

 蝦夷の首領島津神(しまつかみ)と国津神(くにつかみ)が竹水門(たかのみなと)で防ごうとしましたが、彼らは日本武尊の姿を見て降伏する。日本武尊は首領を捕りこめて手下にすると、日高見国を出て、常陸(茨城県)、甲斐(山梨県)に至ったところで、信濃(長野県)と越(新潟県)が王化に服していないということで、その方面も平定しました。そしてヤマトに帰還する途中、伊勢(三重県)で病死します。

 

 日本武尊の伝承は全国各地に残っており、北は岩手県奥州市(水沢区中上野町の駒形神社)にまで残っています。それは都内でも見ることができ、例えば東京都台東区の鳥越神社には、日本武尊が鳥越の里にしばらく駐留し、周辺の悪者を退治したと言い伝えられています。

 

 『日本書紀』によると、日本武尊の遠征が終わってからしばらく経って、景行は御諸別王(みもろわけのきみ)に東国を治めることを命じましたが、そのとき蝦夷が騒いだので兵を送り討ち、首領の足振辺(あしふりべ)・大羽振辺(おおはふりべ)・遠津闇男辺(とおつくらおべ)は降伏し、領地を献上しました。

 

 それからしばらく経って応神天皇(15代天皇とされ景行の曾孫とされる)のとき、蝦夷が朝貢し、朝廷はその蝦夷を使って厩坂道を造らせました。その後、倭国は百済から良馬をもらい、それを飼った場所を厩坂といいましたが、もしかすると、蝦夷は厩坂で馬の飼育を朝廷から任され、その後、厩坂での馬の飼育技術を活かして地元に帰った後に馬の生産を軌道に乗せることができたのかもしれません。

 

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【参考資料】

  • 『日本書紀(下) 全現代語訳』 宇治谷孟/著 1988年 
  • 『白鳥伝説』 谷川健一/著 1988年
  • 『日本の神々 神社と聖地 12 東北・北海道』 谷川健一/編 2000年

 

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