◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

第6回 上毛野君田道の東北経略

 『日本書紀』によると、仁徳天皇(4世紀後半から5世紀初期にかけて)の時代、蝦夷が叛いたので、仁徳は朝鮮半島での新羅との戦いで勇名を馳せた上毛野君田道(かみつけののきみたじ)を蝦夷討伐に派遣しました。ただし、これは津田左右吉氏が言うように、上毛野の領主だった田道が、自らの生活の舞台を拡げるために自力で蝦夷の地に侵攻していたことの表れだと考えられ、仁徳天皇の命令というのは『日本書紀』を編さんするときに上毛野氏から提出された資料を元に作成した話しでしょう。

 

 さて、5世紀の東アジアは寒冷化傾向が現れており、このころ北海道江別市周辺(石狩平野)に源を発する江別文化の人びとが南下をしていました。そうすると江別文化を奉ずる北東北の人たちに玉突きされるかたちで南東北南下をしたのかもしれません。気候の寒冷化に伴い北東北にいた蝦夷が大挙南下し、南東北において元々の住民と軋轢を起こしていた可能性が考えられ、ここで「蝦夷が叛いた」と言っているのは、上毛野(群馬県)の領主である田道は、南東北にも支配権を拡大していた様子が伺えるので、南東北のでの紛争のことを表現を変えて言っているのかもしれません。

 

 きっかけおよび理由はどうであれ、田道は野望を逞しくして奥州へ軍を進めたようです。このあとも上毛野氏は東北地方に侵攻したり、東北の支配層に人を派遣したりすることになり、東北と深く関わっていくことになりますが、田道は上毛野氏の北への進出の先駆的存在となります。

 

 さて、奥州へ侵攻した田道であったが、壮途虚しく伊峙の水門(いしのみと)で戦に敗れ、死亡してしまいました。関東の最有力者である上毛野氏を破った蝦夷はかなり強力だったと想像できますが、、惜しいことに名前は伝わっていません。ところが、死んだ田道の執念はもの凄く、蝦夷が田道の墓を掘ると、田道は大蛇となって現れ、その毒気で多くの蝦夷を殺したといいます。

 

 田道が侵攻したという伊峙の水門の場所については古来から三つの説があります。陸奥国牡鹿郡石巻(宮城県石巻市)説、上総国夷隅郡(千葉県勝浦市)説、常陸国茨城郡夷針郷(茨城県茨城町)説です。ところが『鹿角市史』はもう一つの説を載せます。秋田県鹿角郡石野村(鹿角市十和田瀬田石)説です。同地の猿賀神社が田道を祀っているのは事実で、さらに北の青森県平川市の猿賀神社も田道を祀っており、こちらはもともと鹿角にあった田道の神霊が大洪水のときに流れ着いたものであるといい、延暦年間(782〜806)に坂上田村麻呂がこの地の蝦夷を討伐して苦戦に陥ったときに、田道の神霊に導かれて勝利したのがきっかけで、桓武天皇の勅許により大同2年(807)に社殿を建立し、鹿角から田道命を勧請、奥州猿賀山深沙大権現として崇められるようになったと伝わっています。

 

 このとき田道は果たしてどこまで北上したのしょうか?

 

 いろいろな歴史を見ていると、本人が赴いていないところに来訪の伝承が残っている話に出くわすことがあります。上記の青森県平川市の猿賀神社に残る田村麻呂の伝承などがそれだ。そう考えると、やはり鹿角や津軽の田道伝承は、伝承でしかないのでしょうか。

 

 田道の奥州遠征はただの伝承であって事実ではないと考えることもできますが、上記の神社の存在を考えると、やはり田道は奥州に侵攻して、当時その名が世間に轟いた事実があったものと考えられます。もしかすると、田道の遠征は一度ではなく、何度か行われたのかもしれません。

 

 時代が下り、仁徳天皇の曾孫と伝わる清寧天皇の時代には、清寧が囚徒を訪問した際に、隼人とともに蝦夷が付き従い、欽明天皇の時代(6世紀)には、隼人と並んで蝦夷が帰順したと伝わっている。朝廷からすると、朝廷に東の蝦夷と西の隼人が恭順の姿を現すだけで、国威発揚に繋がるわけです。

 

 さて、ここまでは『日本書紀』に描かれた蝦夷の存在は伝説の域にいるように思えます。その蝦夷がいよいよ歴史時代に登場することになります。

 

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【参考資料】

  • 『鹿角市史 第一巻』 鹿角市/編1982年
  • 『日本書紀(下) 全現代語訳』 宇治谷孟/著 1988年 
  • 『新北海道の古代2 続縄文・オホーツク文化』 野村崇・宇田川洋/編 2003年

 

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