◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

第7回 アヤカスの服属

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 『日本書紀』によると、敏達天皇10年(581)閏2月、蝦夷数千人が辺境を侵し荒らしました。この「辺境を侵し荒らした」というのは、やはりさきの上毛野君田道のときと同様、気候の寒冷化の影響による蝦夷勢力の南下によって倭国人と蝦夷の間で起きた摩擦のことかもしれません。

 

 しかし理由はどうであれ倭国と蝦夷との間に紛争は起きました。そして朝廷はこの機会を蝦夷を服属させるチャンスと見ました。朝廷は綾糟(あやかす)ら蝦夷の魁帥(ひとごのかみ。首領)の面々を朝廷に召しました。おそらく何か交易上の利益を与えるなどの良い条件を提示して上京させたに違いないでしょう。なお、アヤカスの名は、文献上に蝦夷の人の実際にいたと思われる固有名詞が出てくる最初の例です。

 

 上京したアヤカスらは、本人たちが予想していなかったことでしょうが、敏達天皇に「思うに、お前たち蝦夷らを景行天皇の御代に討伐され、殺すべきものは殺し、許せるものは許された。今、自分は前例に従って、首領者である者は殺そうと思う」と脅され、泊瀬川に浸り水をすすらされ、三輪山に向かい「私ども蝦夷は、今から後、子々孫々に至るまで、清き明き心をもって、帝にお仕え致します。もし誓いに背いたなら、天地の諸神と天皇の霊に、私どもの種族は絶滅されるでしょう」と誓わされてしまいました。

 

 三輪山とは、大神神社(おおみわじんじゃ)のことで、そこには大物主(オオモノヌシ)が祀られていて、蝦夷が信奉する神とは異なります。アヤカスら蝦夷は、自分たちが信じる神ではない異宗教のヤマトの神の影響下に無理やり置かれ、服従を誓わされたのです。しかも、アヤカスらはヤマトの言葉を話すことができなかったはずなので、無理やり上記の言葉を発音させられたに違いありません。

 

 しかし、まだこのときの朝廷は蝦夷の首領たちを殺すことはしませんでした。220年後の延暦21年(802)のときには、降伏してきた蝦夷の首領アテルイとモレは死刑になっています。まだアヤカスらの入朝のときは倭国は蝦夷を服属させて貢物を持ってこさせることを約束させることが目的で、自国の四周の蛮族を服属させるという、中国にならった「小中華」としてのメンツが保てればそれでよかったのです。

 

 『日本書紀』によると、崇峻天皇2年(589)には、近江臣満(おおみのおみみつ)を東山道の使いとして遣わし蝦夷の国境を視察させ、宍人臣雁(ししひとのおみかり)を東海道の使いとし東方の海辺の国を視察させ、阿倍臣(あべのおみ)を北陸道の使いとし、越などの諸国の境を視察させました。この阿倍臣の子孫は、「第10回 阿倍臣の北方懐柔」で述べるように、7世紀の中葉、日本海側の蝦夷を懐柔するため越から北上して、一説には北海道にまで行っているといいます。

 

 前方後円墳体制の北限は5世紀後半に岩手県奥州市まで及んでおり、その後前方後円墳体制は崩壊しますが、その当時の東北地方の豪族たちの子孫を召したのではないでしょうか。西国ではあらたな地方自治制度である国造制の施行が進んでいたため、それを東国に広めるために、いわば「事前説明会」のようなものが催されたのではないかと考えています。

 

 『日本書紀』で「観蝦夷国境」と記されたこの話は、東国の国境を画定したことを表しており、これによって東国の豪族は国造に編入されていき、東国における国造制が成立しました(『国造制の成立と展開』)。つまり、この時期に朝廷による東国支配が一段階進んだわけで、それを主導したのは蘇我馬子です。崇峻天皇の事跡を『日本書紀』で見てみると、主な事跡の主語は蘇我馬子になっており、大山誠一氏がいうように、崇峻は天皇になっておらず、この時期の最高権力者は蘇我馬子であったと考えてよいでしょう。

 

アヤカスの581年、気候は寒冷か、調べる。
宣化天皇1年(536)に深刻な食糧難が記されている。この異変は世界中で30以上の古文書に見ることができ、世界的に天候に異変(寒冷化)があったことが分かる。536年の飢饉の影響でヤマト朝廷が仏教に飛びついた可能性がある。。

 

高句麗はすでに570年(欽明31年)から数回、国書をたずさえて日本海側の越に到り、倭国に修交を求めていた。(『大王から天皇へ』P.222)
高句麗が越に来たのとアヤカスらを招いたのは何か関係が無いか?

 

 聖徳太子が摂政をしたと伝わる女帝推古天皇の在位中、関東では畿内から10〜20年ほど遅れて、前方後円墳の築造が突如途絶えます。その後は、方墳や円墳を築造することになりますが、その中でも規模が大きいものは、国造ひとつに対して古墳がひとつという割合になって行きます。

 

 『日本書紀』によると、推古女帝が崩御する前年の推古35年(627)2月、陸奥国で狢(うじな。ムジナ)が人に化けて歌を歌いました。これは讖緯説(しんいせつ。中国の漢代に流行した予言)的に何かを暗示しているという説もありますがそれが何かは不明です。しかし、畿内の人びとにとっては東北地方はムジナが人に化ける魑魅魍魎の世界に見えていたと、素直に文字どおりに受け止めることもできます。

 

 全国第6位の見瀬丸山古墳(318m)は欽明天皇の陵墓との説がある。

 

【参考資料】

  • 『国造制の成立と展開』 篠川賢/著 1985年 
  • 『日本書紀(下) 全現代語訳』 宇治谷孟/著 1988年 

 

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アヤカスの服属

上毛野君形名の蝦夷討伐

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