◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

第8回 上毛野君形名の蝦夷討伐

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 『日本書紀』によると、舒明天皇9年(637)、蝦夷が叛いて入朝しなかったので、舒明天皇は大仁上毛野君形名(だいにんかみつけののきみかたな)を将軍に任じ蝦夷を討たせました。大仁というのは、推古天皇11年(604)12月に定められた位階制度の「冠位十二階」で上から3番目の位階なので、形名は地元の上毛野(群馬県)にあっては独立領主に近い立場にあり、それと同時に朝廷においては高位の貴族であったということになります。

 

 さてその形名でしたが、緒戦で蝦夷に負け塁(砦)に閉じこもってしまいました。しかし、妻に「先祖の名を汚すのですか」と叱咤激励されて元気を取り戻し、反撃に転じ蝦夷を打ち破り、ことごとく捕虜にしました。

 

 今回も、「第6回 上毛野君田道の東北経略」で述べた田道のときと同じで、上毛野氏が自らの武力で奥州に攻め込んだものと考えられます。

 

 それにしても討伐を行った理由の「入朝しなかった」という件が本当だとしたら、56年前の敏達天皇10年(581)のアヤカスらの服属以来、蝦夷は毎年入朝するのが習わしであったということになります。そうだとすると、その伝統を破ってこの年蝦夷が入朝しなかった理由は何でしょうか。何か突発的な事故でも起こったように思えますが、たった1年入朝しなかっただけで討伐の理由にするには乱暴すぎるので、入朝しなかった年が数年続いた可能性があります。数年間入朝しなかったとすると、あきらかに蝦夷側の故意なる反抗だと思えます。そもそもアヤカスらも朝廷に力ずくで屈服させられていたので、アヤカスらの孫の代くらいの世代になると、そういった卑屈な状況を打破しようとする空気が蝦夷にも起こってきたのかもしれません。

 

 『日本書紀』によると、皇極天皇元年(642)9月21日、越の辺境(新潟県以北日本海側)の蝦夷が数千人帰服し、10月12日には朝廷で蝦夷が饗応され、15日には蘇我臣蝦夷(そがのおみえみし)が蝦夷を家に迎えて親しく慰問しました。通常、蝦夷を招くのは朝廷だけですが、ここで蘇我蝦夷の名の元で蝦夷を招いているのは、蘇我蝦夷の権力が当時絶大であったことを物語っています。

 

 さて、越の辺境の蝦夷数千人が帰服したのは、ヤマト政権側の何かしらの工作の結果だと思われますが、理由は分かりません。数千人というのが実際の数かどうかはわかりませんが、非常に多い人数であり、もしかするとこれで越の国のなかでも新潟県北部域にいた蝦夷は根こそぎ朝廷に帰服したことになったのかもしれません。

 

【参考資料】

  • 『日本書紀(下) 全現代語訳』 宇治谷孟/著 1988年 
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