◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

第9回 律令国家始動

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日本書紀によると、乙巳の変の2年後の647年に渟足柵が、翌年には磐舟柵が造られました。この「柵」とは何でしょうか。これは歴史用語では「城柵」と呼ばれているものです。城柵については先日7月30日の歴旅やじきた楽校でも話しました。簡単に言うと、蝦夷の土地を支配するに当たって、その拠点となる施設で、東北地方の場合は「○○柵」と呼ばれていました。文字通り、当初は木で作った柵で周りを囲まれていたと考えられ、軍事的な拠点であると同時に政治的な役所の役割を持っていた柵もありました。有名なのは陸奥国府でもある多賀城ですね。多賀城も当初は「多賀柵」と呼ばれていました。渟足柵と磐舟柵は東北地方ではありませんが、新潟市内も大きく見れば、東北地方の日本海側の続きと考えてください。乙巳の変から2年後にはそういった施設を作ってしまったわけで、それ以前の蘇我政権のときにはそういった話しは一切ありませんでした。乙巳の変から2年後と言うスピードでこういう事業を起こしていることから、孝徳政権の首班である中大兄皇子や藤原鎌足たちは、以前から東北地方に対して政策の腹案を持っていたはずで、とくに鎌足の息子である不比等のその後の政策から想像するに、鎌足が積極的に東北地方への進出を考えていたのではないかと思います。実際、東北地方の太平洋側には、タケミカヅチやフツヌシという神様が祀られていますが、タケミカヅチは藤原氏の本家である中臣氏が信奉している神です。
 さて、孝徳政権は今までになかった「城柵」の設置を始め、孝徳の次に皇位に就いた斉明天皇のときには、阿倍臣、また箇所によって具体的に阿倍引田臣比羅夫と出ていますが、阿倍氏が船団を率いて東北地方の日本海側を北上し蝦夷を懐柔します。もちろんここでいう蝦夷は日本の支配の及ばない北方において、実力でその地を治めることに成功した豪族のことで、彼らに対して阿倍氏は官位を授けたりしつつ、柔らかい言葉でいえば親睦を深めて行ったのです。一説には北海道まで行ったと言われていますが、実際、異民族である粛慎とは敵対して戦闘状態になっていますので、北海道まで行った可能性はあるのではないでしょうか。
 この北方探検がおこなわれていたは、日本書紀では658年から660年までの3年間です。なお、阿倍氏は北陸側に勢力を持っていた古代豪族で、このあと関東や東北にも勢力を延ばしてきますので、先述したように東国の最有力者である上毛野氏が東北地方での影響力を高め過ぎると都合が悪いので、それと競合させる必要もあってより朝廷寄りの阿倍氏を対蝦夷政策に抜擢したのかもしれません。
 さて、この頃、日本書紀には太平洋側の動きが記載されていないのですが、仙台市太白区にある郡山遺跡が築かれます。それがまったく「柵」であることから、渟足柵や磐舟柵が築造された頃、太平洋側にも郡山遺跡が築造され、対蝦夷政策が実施されていたことが分かります。こちらの太平洋側では上毛野氏が主導していた可能性が高いと私は思っています。
 孝徳、斉明と2代に渡って東北政策が進められましたが、その後しばらく東北地方に対しては積極的な動きが認められなくなります。その理由は、660年に百済が滅亡してから、日本国内も大変な騒ぎになっていたからです。663年には百済の旧臣たちを援助して半島へ出兵し、白村江の戦いが行われ我が国は敗北を喫します。当時の日本の軍隊は、各地の豪族たちの軍隊の寄せ集めで、日本海側を懐柔した阿倍氏や、おそらく太平洋側をやっていた上毛野氏も当然ながら半島へ軍勢を派遣しなければならず、東北地方に力を割いているわけにはいかなくなったのです。そして敗戦によって、唐の役人が多い時は2000人も日本へやってきます。イメージ的にはGHQですね。ただ、日本は唐の植民地になったわけではないので、GHQと言ってしまうのは言い過ぎですね。続いて、672年には壬申の乱というクーデターが起きて、天武天皇が乗っ取ります。日本は唐の脅威にさらされていたのですが、運よく新羅が唐に対して宣戦布告してくれたこともあり、天武天皇は天皇になることができ、もしかすると天武は新羅と結んでいたかもしれません。新羅の対唐宣戦布告と壬申の乱はあまりにもタイミングが良すぎます。実際天武政権以降は、新羅とは懇意になるからです。
 7世紀の第3四半期には郡山遺跡が築かれ、それから10年か20年後くらいには、朝廷の勢力は大崎平野まで伸びていることが分かります。というのも663年の白村江の戦いで捕虜になっていた、陸奥国信太郡の壬生五百足(みぶいおたり)らが707年に解放され帰国したとあるからです。663年の時点で信太郡はありました。かつての古墳時代に前方後円墳体制の実質的な最北端の地であった江合川沿いまで、朝廷は正式な版図としていたのです。ただし、大崎平野全体を支配下においていたと考えるのも早計で、部分的にまだら模様みたいな感じで支配地を伸ばしていったと考えた方がいいかもしれません。江合川南岸にある大崎の名生館遺跡は最も古い時期は7世紀半ば頃と推定されています。

 

第5回 朝廷の対蝦夷政策の転換

 

 『日本書紀』によると、皇極天皇4年(645)6月12日、中大兄皇子(なかのおおえのみこ)や中臣鎌子連(なかとみのかまこむらじ。のちの藤原鎌足)らが時の権力者蘇我入鹿を暗殺し、翌日入鹿の父蝦夷が自殺した。「乙巳(いっし)の変」だ。この事件以降の政治改革を「大化改新」と呼ぶ。改革派によって、皇極は退位させられ、弟の孝徳天皇が践祚した。

 

 元号が大化と定められた同じ年(645)の8月5日、孝徳は新たに東国の国司(知事のような役職)として任命された人々を集め、国司としての心がけなどについて詔(みことのり)し、それを聴いた国司たちは任地に赴いた。旧来から存在する地方の権力者は国造や郡領(こおりのみやつこ)であり、国造や郡領には地元の有力者が任命されていた。それに対して新しい国司制度は中央の役人が地方に派遣されるものである。国造や郡領たちをうまく持ち上げておきながら権力を少しずつ吸い取っていき、中央政府の力を延ばすのが国司の当初の役割だ。

 

 翌大化2年(646)正月には、蝦夷が朝廷に帰順した。改新の詔の発布と合わせて、新政権の権力を内外に示すために、大々的に蝦夷を上京させたものと考えられる。

 

 翌大化3年(647)、渟足柵(ぬたりのき。比定地は新潟市沼垂)が設けられ、柵戸(きのへ。屯田兵)が置かれた。また、翌大化4年(648)には磐舟柵(いわふねのき。比定地は新潟県村上市岩船)が設けられ、越と信濃の民を選んで柵戸とした。渟足柵や磐舟柵は倭国が日本海側の新潟北部より北に進出する際の拠点になり、これが文献上最初の「柵」(き・さく)の設置例となる。

 

 磐舟柵造営と同じ大化4年に、阿倍大臣(阿倍倉梯麻呂)が聖徳太子が建立した四天王寺の五重塔に四体の仏像を迎え入れた。その四体の仏像とは、須弥山(古代インドの宗教観念上の山)の中腹にいて東西南北を司る四天王のことを指し、四天王とは、持国天(東)、広目天(西)、増長天(南)、多聞天(北)のことだ。

 

 谷川健一氏は『白鳥伝説』のなかで、その四天王を渟足柵と磐船柵の内部に祀ったのではないかと推測している。

 

 「第6回 阿倍臣の北方懐柔」で述べるとおり、斉明天皇4年(658)、阿陪臣が北方の蝦夷を懐柔した際、齶田浦(秋田湾)の蝦夷恩荷(おが)が降伏してきたが、そのときの恩荷の文言に「秋田浦の神」が登場する。北日本には古四王(越王)神社が多くあるが、谷川氏は、四天王信仰と「秋田浦の神」が習合したものが古四王神社ではないかと推測している。

 

 さて、大化改新以前の朝廷の蝦夷に対する政策は、倭国の版図が南東北にまで広がった以降は、「東夷」である蝦夷から朝貢を求め、それが敏達天皇10年(581)のアヤカスらの服属以来は毎年の制度となり、それが保たれている以上は積極的に蝦夷の土地を領土化することはなかった。しかし、大化改新以後は、前述のように蝦夷の土地に積極的に柵を建設し、蝦夷の居住地域内に領土を拡張するようになっていく。

 

 なぜヤマト朝廷は越の国の蝦夷の居住地に柵を造り始めたのか?

 

 その理由は、蝦夷との交易で利益を出したり貢物を受け取ったり、蝦夷とより積極的なコミュニケーションを取るためのセンター作りが目的の一つだと考えられ、また、政情不安定な朝鮮半島の情勢に対処するため国防上の都合で日本海側を北進したとも考えられ、さらに、北海道江別市周辺(石狩平野)に源を発し、このころまでに蝦夷を席巻しつつあった江別文化の南下に対抗する意味もあったのだろう。なお、『北海道の古代2 続縄文・オホーツク文化』によると、江別文化は、最大伸長時は北は南樺太から南千島、南は本州の東北地方や上越までの範囲を誇る「北の覇者」とも言うべき文化であったという。

 

 以上のことから、大化改新(645)以降は、蝦夷と倭国との間で今までとは比較にならないほどの問題(事件)が起こるようになる。まさしく蝦夷と倭国の関係は次のステージに移行すると考えて良い。

 

 『日本書紀』によると、斉明天皇元年(655)7月、北(越)の蝦夷99人、東(陸奥)の蝦夷95人が朝廷で饗応され、柵養の蝦夷(服属した蝦夷)9人、津刈(津軽)の蝦夷6人に冠位が与えられた。「津刈」は現在でも使われている東北の地名が史料上に現れる最初の例だが、現在の津軽よりももっと漠然とした広い範囲の呼び名であったかもしれない。また、蝦夷に冠位が与えられるのはこれが初めのことだ。これは蝦夷の身の処し方に重大な意味を持つ。つまり、蝦夷は倭国という国家の政治機構の末端に接続され始めたのだ。このようにして蝦夷は徐々に倭国に絡め取られていく。

 

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【参考資料】

  • 『日本書紀(下) 全現代語訳』 宇治谷孟/著 1988年 
  • 『天翔る白鳥 ヤマトタケル』 小椋一葉/著 1989年 
  • 『新版[古代の日本]9 東北・北海道』 1992年
  • 『県史3 岩手県の歴史』 細井計・伊藤博幸・菅野文夫・鈴木宏/著 2009年
  • 『ものが語る歴史25 蝦夷とは誰か』 松本建速/著 2011年
  • 『アイヌ学入門』 瀬川拓郎/著 2015年
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