◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

第10回 阿倍臣の北方懐柔

ただいま制作中!

 

 『日本書紀』によると、斉明天皇4年(658)4月、阿倍臣(あべのおみ)が軍船180艘を率いて蝦夷を討った。

 

 この「討った」というのは何か蝦夷に不都合な点があったような印象を与えるが、現実には「第5回 朝廷の対蝦夷政策の転換」でも述べたとおり、南下する江別文化への対応も含め、3年前に冠位を授かってまがりなりとも朝廷の末端に列した蝦夷を視察して、さらに朝廷に与する蝦夷の数を増やし、日本海側の北部に朝鮮半島やロシア沿海州に対する防御拠点の候補地を選定するための地理の把握が目的だったと考えられる。

 

 さて、阿倍臣の来航に対して、齶田(秋田)・渟代(能代)二郡の蝦夷は阿倍臣の軍船を遠くから眺めただけで降伏した。実際には先だって冠位を授かっていた蝦夷の斡旋があって帰順したものであろう。

 

 齶田の蝦夷恩荷(おが)は「官軍と戦うために弓矢を持っているのではありません。ただ手前どもは肉食の習慣がありますので、弓矢を持っています。もし官軍に対して弓矢を用いたら、秋田浦の神がおとがめになるでしょう。清く明らかな心をもって、帝にお仕え致します」と誓って言った。オガは、小乙上の位を授けられ、渟代・津軽二郡の郡領(こおりのみやっこ。長官)に任命された。阿倍臣は渡嶋(おしま)の蝦夷を有間の浜に集めて饗応して帰らせた。なお、ここで出てくる渡嶋は、北海道説、津軽半島説、下北半島説がある。また、小乙上とは大化5年(649)2月に制定された「冠位十九階」の下から3番目の冠位だ。

 

 同年の7月4日には、蝦夷200人余りが上京した。阿倍臣による説諭によって帰順した蝦夷が正式に官位を授かるために早速上京したものと思われる。朝廷は柵養の蝦夷2人に冠位一階を授け、渟代郡の大領(長官)沙尼具那(さにぐな)に小乙下、少領(次官)宇婆佐(うばさ)には建武等々を授け、津軽の大領馬武(めむ)に大乙上、少領青蒜(あおひる)に小乙下等々を授けた。また、都岐沙羅(つきさら)の柵造(きのみやつこ)に従二階、渟足の柵造大伴君稲積(おおとものきみいなづみ)には小乙下を授けた。なお、都岐沙羅柵という柵は現在の場所は不明である。

 

 つづいて、阿倍引田臣比羅夫(あべのひけたのおみひらふ。今度は名が記されている)は、同年中に齶田からさらに北上し、粛慎(みしはせ)を討っている。粛慎とは『日本書紀』の言葉の使い方からして、蝦夷とは違う別の種族を表している。粛慎の居た場所は不明だが北海道かロシア沿海州だと考えられている。

 

 翌斉明5年(659)3月17日、都で陸奥と越の蝦夷が饗応された。この月、阿倍臣(今回は単に「阿倍臣」と記されている)は再度軍船180艘を率いて蝦夷を討った。ここでも「討った」とあるが、蝦夷側とはすでに連絡は取れていて、それら蝦夷の説諭によって新たに帰順する蝦夷を増やしていく工程だったと思われる。

 

 阿倍臣は、飽田(秋田)郡・渟代郡の蝦夷241人とその捕虜31人、津軽郡の蝦夷112人とその捕虜4人、胆振?(いぶりさえ)の蝦夷20人を一箇所に集めて饗応した。そのとき、船一隻と、五色に染め分けた絹を奉じて、その土地の神を祀った。これも先にオガが言った「秋田浦の神」と同系統の神であろう。また、ここで「蝦夷」と言っているのは、従来から朝廷に帰順している蝦夷で、「捕虜」と言っているのは、「蝦夷」の説諭によって新たに降ってきた蝦夷だと考えられる。それと、胆振?は渡嶋の中の地名であるが、現在のどこにあたるかは分からない。渡嶋は既述した通り、北海道説、津軽半島説、下北半島説がある。

 

 阿倍臣はさらに進み、肉入籠(ししりこ)に至ると、問?(という)の蝦夷胆鹿嶋(いかしま)と?穂名(うほな)が、後方羊蹄(しりへし)を政所(政庁)として欲しいと願ったので、胆鹿嶋らの言葉に従って郡領を置いた。また、『日本書紀』が引く「ある本」によると、阿倍引田臣比羅夫が粛慎と戦って帰り、捕虜49人をたてまつったとある。

 

 谷川健一氏は後方羊蹄の場所を、青森市の茶屋町から西南に入ったシリベシの林とし、そこには源義経の片脛巾を祀る荒脚巻(あらはばき)明神があり、義経の話は後世の付会とし、政所を蝦夷からの攻撃から護る神として、アラハバキを祀ったものと考えている(『白鳥伝説』)。

 

 なお、アラハバキとは谷川氏は以下のように定義している。

 

 一、もともと土地の精霊であり、地主神であったものが、後来の神にその地位をうばわれ、主客を転倒させられて客人神扱いを受けたものである。

 

 二、もともとサエの神である。外来の邪霊を撃退するために置かれた門神である。

 

 三、客人神としての性格と門神としての性格の合わさったものが門客人神である。主神となった後来の神のために、侵入する邪霊を撃退する役目をもつ神である。

 

 多賀城の傍にも「荒ハバキ神社」があり、宮城県大崎市岩出山町にも「荒?(あらはばき)権現」があり、秋田県の旧雄勝郡大沢村(横手市雄物川町大沢)にも「阿良波々岐権現」があり、アラハバキは関東・東北に広く分布している(他の地域にもあるが関東・東北が濃い)。

 

 さて、谷川氏は阿倍臣が郡領を置いた後方羊蹄の場所は青森としたが、北海道という説もある。もし北海道の日本海側だとすると、この時代北海道まで倭人の影響力が及び、さきの津軽や秋田方面とともに北海道にも郡が置かれたということになる。一般的には、郡は国造が解体され成立したというのが通説だが、蝦夷の居住する東北北部と北海道では国造が存在しなかったので、その地方の場合は上記のように、現地の蝦夷の中から地域内での影響力と朝廷への従順度を見極めてもっとも適当だと思われる者を「仮」の郡の長官に任命したと考えられる。なお、ここでは「郡」を設置していたことになっているが、正確に言うとこの頃はまだ郡は「評」と称され、評が郡と改称されるのは、大宝元年(701)の大宝令の施行後である。

 

 この頃(斉明天皇5年(659))、倭国の使者が唐に使わされており、使いと皇帝との会話の中で蝦夷の話が出てくる。それによると、蝦夷は3種類あり、遠いものを都加留(津軽)と名づけ、次を麁蝦夷(あらえみし)と名づけ、一番近いものを熟蝦夷(にきえみし)と名付けているという。

 

 翌斉明6年(660)3月、またもや阿倍臣(今回も単に「阿倍臣」と記されている)が軍船200艘を率いて粛慎を討った。阿倍臣が陸奥の蝦夷を船に乗せ大河までくると、渡島の蝦夷が1000余人屯営していた。その蝦夷が言うには、粛慎に殺されそうになっているので、阿倍臣に仕えたいとのことだったので、阿倍臣は粛慎と沈黙貿易を行おうとした。ところが取引は成立しなかった。そのため、阿倍臣は幣賂弁島(へろべのしま)に帰ったところ、しばらくして粛慎が和を乞うてきた。しかしまたもや話が成立せず今度は戦いになり、阿倍臣側は、能登臣馬身竜(のとのおみまむたつ)を殺されたが、粛慎は妻子を殺して逃走した。5月には阿倍引田臣が蝦夷50人をたてまつった。

 

 以上の『日本書紀』の3年間にわたる北方懐柔(蝦夷を討伐するためというよりも蝦夷を懐柔するためといったほうが良い)の記録は、主人公の名前を「阿倍臣」と言ったり、「阿倍引田臣比羅夫」と言ったり統一が取れていないのに加えて、内容も重複するようである。これは元になった阿倍氏側の資料から日本書紀に編集した時に混乱が生じたからであると考えられる。高橋富雄氏は阿倍臣のこの一連の遠征を「中央政府の企画に成るものではあるまい」とし、阿倍氏が越の国の族長という資格を踏まえて行った活動としている。つまり、上記の蝦夷に対する任官は阿倍臣による任命であって、国家としての任命では無い可能性があるということだ(だから蝦夷たちはその後上洛して正式な任官を受けている)。

 

 さてそういうわけで、『日本書紀』の記述を素直に読むと、東北地方から北海道にかけての日本海側の蝦夷の懐柔は成功したようだが、粛慎とは敵対関係となり、遠征終了時点までには改善されることはなかったようだ。

 

 記録には残っていないが、阿倍臣の日本海側遠征と並行して太平洋側も同じような遠征が行われた可能性も否定できまない。仙台市太白区郡山で発掘された郡山遺跡は2期にわたって作られ、第1期の遺跡は7世紀第3四半期のものと推定されており、古川市大崎の名生館遺跡も最も古い時期は7世紀後半と推定されている。太平洋側の遠征は海によるものというより、内陸を進むものであったのだろう。

 

次に進む

 

 

【参考資料】

  • 『日本書紀(下) 全現代語訳』 宇治谷孟/著 1988年 
  • 『天翔る白鳥 ヤマトタケル』 小椋一葉/著 1989年 
  • 『新版[古代の日本]9 東北・北海道』 1992年
  • 『県史3 岩手県の歴史』 細井計・伊藤博幸・菅野文夫・鈴木宏/著 2009年
  • 『ものが語る歴史25 蝦夷とは誰か』 松本建速/著 2011年
  • 『アイヌ学入門』 瀬川拓郎/著 2015年
スポンサードリンク



 

ご意見・ご感想は、稲用章

inayouアットマークa.email.ne.jp

までお願いします。