◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

第11回 紛争前夜

ただいま制作中!

 

 阿倍臣の北方懐柔の後の斉明天皇6年(660)には朝鮮半島で大きな事件が起こった。倭国と懇意にしていた百済が滅亡してしまったのだ。そして百済滅亡から3年後の天智天皇2年(663)、倭国は北方懐柔を行った阿倍引田臣比羅夫らを半島に派遣し、百済の残存勢力とともに白村江で唐・新羅の連合軍と戦った。しかし倭国はその戦に敗れ、朝鮮半島での足場を失い、東アジア世界(当時は世界全体と言ってよい)で孤立してしまった。そのため倭国は唐・新羅からの侵略の危機にさらされ、地方分権体制から中央集権体制への移行を強化する必要が生じた。なお、「白村江の戦い」には上野(群馬県)の将軍上毛野君稚子(かみつけののきみわかこ)も参加している。今まで述べたとおり、蝦夷との因縁が深い上毛野氏はこの頃の朝廷でも重要な立場にいたのである。

 

 さてそのような経緯から、倭国は急ぎ律令国家としての体裁を整え始め、天智天皇9年(670)頃(諸説あり)に国号を「日本」と改め、その指導者を「天皇(すめらみこと)」と呼ぶことにした。

 

 天武天皇元年(672)、天智天皇の弟大海人皇子(おおあまのみこ)が、天智の子大友皇子(おおとものみこ)から政権を奪取した。「壬申の乱」である。古代最大規模の内乱ともいえる壬申の乱だが、この内乱で蝦夷がどのような行動を取ったかは知られていない。

 

 天武天皇11年(682)4月22日、越の蝦夷伊高岐那(いこきな)らが浮人70戸をもって一郡としたいと申請し許可された。浮人とは俘囚(ふしゅう。朝廷に帰順した蝦夷)のことだ。蝦夷が建てた郡であるので正式な郡ではなく、その場所も伝わっていないが、後の和銅元年(708)に最上川の河口付近の庄内地方に建てられる出羽郡の前身であろう。

 

 持統天皇3年(689)正月3日、務大肆陸奥国優耆曇郡(むのだいしみちのくのくにうきたまのこおり。置賜郡)の城養の蝦夷脂利古(しりこ)の子麻呂と鉄折(かなおり)が出家を願い出て許され、正月9日には、越の蝦夷の僧道信に仏像などを賜った。また、7月1日にも陸奥国の蝦夷の僧自得が仏像等を授けられた。仏教が日本に公伝して百数十年で、仏教の影響は蝦夷にまで及んでいたのだ。日本は東北に城柵を造営するとき、あわせて寺院を建設する場合があり、上記のような僧侶たちは城柵に付随した寺院に勤めることになったのであろう。なおシリコは、優耆曇郡の城養の蝦夷とされているが、これは柵に所属する蝦夷ということで、この時点で米沢地方に柵があったことが分かる。米沢地方の南の会津地方も国造が置かれていないので柵があった可能性があるが見つかっていない。

 

 持統天皇8年(694)正月23日、粛慎2人に位が授けられ、持統天皇10年(696)3月12日には、越の渡島の蝦夷伊奈利武志(いなりむし)と粛慎の志良寸叡草(しらすえそう)に衣類などを賜った。粛慎は先の阿倍臣の遠征の際に敵対したが、この頃には粛慎の中でも朝廷に帰順する者が出てきたということだ。なお、これが『日本書紀』に蝦夷ならびに粛慎が登場する最後の記述となる。

 

 『日本書紀』に続く日本の正史である『続日本紀』によると、翌文武天皇元年(697)10月19日に陸奥の蝦夷が、その地の産物を献上し、12月18日には越後の蝦狄(えみし)に地位に応じて物を与え、さらにその翌文武天皇2年(698)6月14日には、越後国の蝦狄がそれぞれ土地の産物を献上した。『続日本紀』では、書き始めの頃に限って、東北地方のエミシを「蝦夷」と表記し、新潟方面のエミシを「蝦狄」と表記している。中国が異民族を呼ぶときの「北狄・東夷・南蛮・西戎」の影響だ。

 

 慶雲4年(707)5月26日、さきの天智天皇2年(663)に行われた「白村江の戦い」で唐軍の捕虜になっていた陸奥国信太郡の壬生五百足(みぶいおたり)らが解放され帰国し、朝廷から衣類などを賜った。朝鮮半島での戦いに遠く陸奥からも兵士が動員されていたのである。またこの記事から、この時点で陸奥国の大崎平野には信太郡が既に存在していたことがわかり、既述したように古川市大崎の名生館遺跡も最古のものは7世紀後半と推定されているので、これらの事実によって当時の日本の太平洋側最北端の領域が大崎平野だったことがわかる。そして、東北内陸部は既述したとおり米沢地方が最北端であった。

 

 日本海側の最北端はというと、先の天武天皇11年(682)に蝦夷の建議によって建てられた仮の郡(権郡)が、和銅元年(708)9月28日の越後国からの申請によって出羽郡として正式の郡に昇格した。その場所は最上川の河口付近の庄内地方であろう。ただし、このときはまだ日本海側は越後国の管轄にあり出羽国は建てられていない。なお太平洋側はすでに陸奥国となっており、その前身である道奥国の建置は7世紀ごろと考えられる。

 

 さて、今回見てきたとおり、新生「日本」は、蝦夷からの要請もあるが、蝦夷の居住地域内に新たな郡を建て領地化していく。蝦夷の全員が朝廷に対して従順であれば問題は起こらないのだろうが、蝦夷にも矜持があり、朝廷の政策を許せないと思う人びとがいてもおかしくない。そういう軋轢があって、日本が奈良時代に入る前年の和銅2年(709)、ついに朝廷が蝦夷に対して恐るべき強硬な態度に出る。それは一体どのような態度か。

 

次に進む

 

 

【参考資料】

  • 『日本書紀(下) 全現代語訳』 宇治谷孟/著 1988年 
  • 『天翔る白鳥 ヤマトタケル』 小椋一葉/著 1989年 
  • 『新版[古代の日本]9 東北・北海道』 1992年
  • 『県史3 岩手県の歴史』 細井計・伊藤博幸・菅野文夫・鈴木宏/著 2009年
  • 『ものが語る歴史25 蝦夷とは誰か』 松本建速/著 2011年
  • 『アイヌ学入門』 瀬川拓郎/著 2015年
スポンサードリンク



 

ご意見・ご感想は、稲用章

inayouアットマークa.email.ne.jp

までお願いします。