◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

第12回 巨勢麻呂の蝦夷討伐

ただいま制作中!

 

 女帝元明天皇の和銅2年(709)3月5日、陸奥・越後の蝦夷が、「野蛮な心があって馴れず、しばしば良民に危害を加える」ということで、遠江(静岡県)・駿河(同)・甲斐(山梨県)・信濃(長野県)・上野(群馬県)・越前(福井県)・越中(富山県)などから兵を動員し、左大弁巨勢朝臣麻呂(こせのあそんまろ)を陸奥鎮東将軍に、民部大輔佐伯宿禰石湯(さえきのすくねいわゆ)を征越後蝦夷将軍に、内蔵頭紀朝臣諸人(きのあそんもろひと)を副将軍に任じ、節刀(天皇が合戦指揮と生殺与奪を委任するために与える刀)と軍令を授けた。舒明天皇9年(637)の上毛野君形名による侵略以来、北東北に他の地方の軍勢が攻め込むことはなかったようだが(阿倍臣の遠征では蝦夷とは合戦をしていない模様なので)、72年ぶりに蝦夷は侵攻を許すことになり、また平和が破られたのである。

 

 

 

 ところで、元明女帝はなぜ今までの伝統を破り、ここにきて急に蝦夷討伐を思い立ったのだろうか?

 

 

 

 朝廷が日本各地の兵士を動員して蝦夷を討つのはこれが初めてだ。元明が蝦夷討伐を思い立った理由として、昨年の出羽郡建置によって現地に派遣された官吏と現地住民(蝦夷)とのあいだで軋轢が生じ、それが騒乱に発展し討伐されることになったことが想像できるが、それは日本海側の話で、今回の軍事行動は太平洋側でも行われている。元明は、子の文武天皇の跡を受けて即位した中継ぎの女帝だが、実はこのときの本当の権力者は藤原不比等であった。不比等は「大化改新」の立役者中臣鎌足の子で、このとき自らの勢力範囲である平城京への遷都を考えていた。そのため、部下の廷臣たちの結束を固め従順に行動してもらうためにも、自分の権力を誇示する必要があったと考えられる。その権力の表現方法が、すなわち征夷であった。

 

 

 

 4月16日には陸奥守の上毛野朝臣小足が没し、7月1日には上毛野朝臣安麻呂が陸奥守に任じられた。今まで上毛野氏は蝦夷と積極的に関わってきたが、去年の3月13日に陸奥守になったばかりの小足は、この年の蝦夷征討には主役として活躍せずに没したことになる。しかし、後任も上毛野氏であるので、まだ奥州での上毛野氏の地位は保たれている。また同日には、蝦夷を討つために諸国に命じて兵器を出羽柵に運ばせた。これにより、この時点で出羽柵が存在したことが分かり、その場所は庄内地方だと思われる。征越後蝦夷将軍佐伯石湯以下の討伐軍は、おそらく庄内平野からさらに北上して現在の秋田県域に侵攻したものと考えられる。

 

 

 

 7月13日には、越前・越中・越後・佐渡の船100艘を征狄所に送らせた。石湯への応援だ。

 

 

 

 8月25日、石湯と諸人が征討を終えて帰還し入朝した。二人は元明に招かれ手厚い恩寵を与えられた。一方、東山道方面を進んで陸奥に入った陸奥鎮東将軍巨勢麻呂のほうは、いつ帰還したかは分かっていないが、麻呂は2年後に正四位下から正四位上に一階上がっている。

 

 

 

 翌和銅3年(710)3月10日、元明は藤原京から平城京(奈良)に遷都した。教科書的な日本史の時代区分ではこれより奈良時代となる。

 

 

 

 4月21日、陸奥の蝦夷らが君の姓を賜り、編戸(50戸で1里を成す戸籍に入ること)の数に入り、公民の扱いを受けたいと申請し許可された。昨年の巨勢麻呂の軍事行動の結果、帰順してきたものと思われるが、平和な話だけではない。というのは、次々回で述べる通り、陸奥方面では蝦夷側の不満は頂点に達していき、やがて爆発することになるからである。

 

 

 

 

 

【参考資料】

  • 『日本書紀(下) 全現代語訳』 宇治谷孟/著 1988年 
  • 『天翔る白鳥 ヤマトタケル』 小椋一葉/著 1989年 
  • 『新版[古代の日本]9 東北・北海道』 1992年
  • 『県史3 岩手県の歴史』 細井計・伊藤博幸・菅野文夫・鈴木宏/著 2009年
  • 『ものが語る歴史25 蝦夷とは誰か』 松本建速/著 2011年
  • 『アイヌ学入門』 瀬川拓郎/著 2015年
スポンサードリンク



 

ご意見・ご感想は、稲用章

inayouアットマークa.email.ne.jp

までお願いします。