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第14回 按察使上毛野広人殺害

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 養老4年(720)9月28日、陸奥国から女帝元正の朝廷に驚くべき報告が上がった。蝦夷が反乱して陸奥国按察使(あぜち)で正五位上の上毛野朝臣広人(かみつけののあそんひろひと)を殺害したというのだ。さきの蝦夷征討は和銅2年(709)なので、それから11年にして重大な事件が発生したわけである。按察使は国司を監察する地方の高官だ。全国に按察使が置かれたのは前年の7月13日なので、設置後早くも殺害される者が出現したということだ。

 

 今まで中央から派遣された名のある官吏で蝦夷の叛乱によって殺害された者はおらず、広人は蝦夷に殺害された最初の高官となった。また、今まで蝦夷は征討は受けていたものの、そのきっかけは蝦夷側の積極的な策動というより朝廷側の言いがかりのように見えていたが、今回広人を殺害したことにより、初めて蝦夷が自らを自らの責任で退っ引きならない事態に追い込んだことになる。

 

 しかし、報告の翌日には朝廷は早速征討の人事を発表し、節刀を授けたことから、朝廷はこの殺人をあらかじめ予知していた、つまり、殺人が起こるように仕向けていたと考えることも可能である。なお、残念ながら広人を殺害した蝦夷の名は伝わっていない。

 

 今回の征討軍は、持節征夷将軍に播磨の按察使で正四位下の多治比真人県守(たじひのまひとあがたもり)、副将軍に左京亮で従五位下の下毛野朝臣石代(しもつけののあそんいわしろ)、持節鎮狄将軍に従五位上の阿倍朝臣駿河(あべのあそんするが)という面々だ。なお、県守は霊亀2年(716)8月20日、遣唐使の最高責任者である遣唐押使に任命され、唐に渡り、養老2年(718)12月13日、無事に任務を果たし帰京している。また、養老3年(719)7月13日には相模・上野・下野を管轄する按察使に任じられている。

 

 惜しいことに、陸奥国でどのような戦いが行われたかはまったく伝わっていないが、合戦の最中の翌養老5年(721)正月5日に県守が正四位上を授かったので、この時点で戦局は朝廷側に有利に運んでいたと考えられる。しかし、合戦はその後もしばらく続いたらしく、県守らは出陣から7ヶ月経った4月29日にやっと帰還したので、正月以降になると征討軍は鎮圧に手こずったようだ。なお、去年の2月に発生した隼人の叛乱もこの時点ではまだ鎮定できず、女帝元正の朝廷は二正面作戦という大変厳しい戦いを強いられたことになる。

 

 6月26日、県守は中務卿に任じられた。しかし石代と駿河にはすぐに昇進の話はなかったようなので、今回の征討は結果的にはあまり成功ではなかったのかもしれない。

 

 8月19日、按察使の管轄が改定され、出羽国は陸奥国の按察使に属されることになった。

 

 10月14日、陸奥国の柴田郡の二郷を分離して苅田郡を設置した。

 

 養老6年(722)4月16日、さきの蝦夷討伐に功のあった将軍以下の官人や蝦夷・通訳たちが位を授かった。随分と対応が遅いように感じるが、「蝦夷討伐に功のあった蝦夷」が存在したということは、ついに蝦夷の中で朝廷軍の手先になって他の蝦夷を攻める部族が現れたことを表している。「夷を以て夷を制す」というわけだ。

 

 8月29日、諸国から柵戸とすべき者1000人を選び陸奥の鎮所に配置した。

 

 養老7年(723)9月17日、出羽国司多治比真人家主(たじひのまひとやかぬし)の言上により、さきの征討に功績があったにも関わらずまだ褒章を受けていない蝦夷52人が褒美と位を授かった。

 

 神亀元年(724)2月25日、陸奥国鎮守の軍卒たちが、自分たちの本籍をこの地に移して、父母妻子を呼んで一緒に生活したいと願い、許可された。陸奥に兵役で来ていた各地の兵たちのなかで、陸奥に定住したいと思う者が出てきたということだ。

 

 

【参考資料】

  • 『日本書紀(下) 全現代語訳』 宇治谷孟/著 1988年 
  • 『天翔る白鳥 ヤマトタケル』 小椋一葉/著 1989年 
  • 『新版[古代の日本]9 東北・北海道』 1992年
  • 『県史3 岩手県の歴史』 細井計・伊藤博幸・菅野文夫・鈴木宏/著 2009年
  • 『ものが語る歴史25 蝦夷とは誰か』 松本建速/著 2011年
  • 『アイヌ学入門』 瀬川拓郎/著 2015年
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