◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

第15回 大掾佐伯児屋麻呂殺害と多賀城築城

ただいま制作中!
 また大きな事件が起こった。神亀元年(724)3月25日に朝廷に届いた陸奥国からの知らせによると、海道(大崎から桃生・牡鹿を経て三陸方面に伸びた道)方面の蝦夷が反乱を起こし、大掾(国の三等官)で従六位上の佐伯宿禰児屋麻呂(さえきのすくねこやまろ)を殺害したのである。さきの上毛野広人の殺害から4年しか経っていない。朝廷は4月3日、殉職した児屋麻呂に従五位下を追贈するとともに、7日、式部卿で正四位上の藤原朝臣宇合(ふじわらのあそんうまかい。不比等の子で藤原四家のひとつ式家の祖)を大将軍に、宮内大輔で従五位上の高橋朝臣安麻呂(たかはしのあそんやすまろ)を副将軍に任じ、海道の蝦夷を討伐する準備を始めた。14日には坂東(関東)9ヶ国の兵士3万人に乗馬や射術を教習させ、布陣の仕方を訓練し、陸奥の鎮所に物資を運び込んだ。

 

 さきの上毛野広人殺害の際は、朝廷は報告が入った翌日に将軍らを任じて節刀を預けるという超迅速な対応をしたが、もしかすると朝廷は討伐の準備はすでに整えたうえで、蝦夷を挑発的態度で誘っておいて、いつでも蝦夷を討てるようにしていたのかもしれない。そうだとすると、可哀想なのは広人だが、広人の犠牲をもって蝦夷がおとなしくなったと踏んだのは朝廷だけで、むしろ討伐を受けたことにより、蝦夷の不満はより一層高まり、今回の児屋麻呂殺害が起こってしまったのではないだろうか。つまり、今回のことは朝廷にとっては想定外であり、そのため殺害事件が起きてしばらく経ってから準備を始めるという遅い対応になってしまったと考えられる。

 

 出羽方面でも蝦夷が騒動を起こし、5月24日、従五位上の小野朝臣牛養が鎮狄将軍に任じられ、蝦狄鎮圧を命じられた。

 

 宇合や牛養らは11月29日に帰京した。このときもどのような戦いが展開したかはまったく不明だが、陸奥と出羽の蝦夷はとりあえず鎮圧された模様だ。今回の件もさきの上毛野広人殺害の件と同様に首謀者の蝦夷の名前が伝わっていない。もしかすると首謀者は討たれたり逮捕されたりするこがなく逃げおおせたのかもしれない。

 

 さてこの年には、大野朝臣東人(おおののあそんあずまびと)が多賀柵(多賀城)を現在の宮城県多賀城市に築城し、陸奥の国府が移された。それ以前の国府は前述の郡山遺跡(仙台市太白区郡山)だったとみられている。若干の北進だ。多賀柵には鎮守府という軍政機関も置かれ、鎮兵と呼ばれる常備兵も配備された。なお、多賀柵の築城時期に関しては『続日本紀』には記述がなく、多賀城跡に残る石碑によって、この年(神亀元年(724))に大野東人によって築城されたことがわかる。

 

 翌神亀2年(725)の春には、陸奥国の蝦夷の捕虜144人を伊予(愛媛県)に、578人を筑紫(福岡県)に、15人を和泉監(大阪府)に配置した。こうして蝦夷は全国に散らばっていく。

 

 正月22日、藤原宇合は従三位・勲二等、大野東人は従四位下・勲四等、高橋安麻呂は正五位下・勲五等を授かった。

 

 神亀4年(727)、渤海国(中国北部からロシア沿海州にかけて建国された新しい国)からの使者が来日したが、使節は出羽に漂着し、寧遠将軍高仁義以下16人が蝦夷に殺害され、生き残った首領高斉徳ら8人が来朝した。

 

 翌神亀5年(728)4月11日、陸奥国が新たに白河軍団を設けることと、丹取軍団を玉作軍団と改称することを申請し、許可された。玉作軍団は、全国に置かれた軍団のうち、もっとも北に位置する軍団だ。

 

 天平2年(730)正月26日、陸奥国が管轄下の田夷村の蝦夷が従順なので郡家を作りたいと申請し、許可された。田夷というのは山夷に対して平地に住む蝦夷のことだが、ここでいっている村の場所はわかっていない。

 

次に進む

 

 

【参考資料】

  • 『日本書紀(下) 全現代語訳』 宇治谷孟/著 1988年 
  • 『天翔る白鳥 ヤマトタケル』 小椋一葉/著 1989年 
  • 『新版[古代の日本]9 東北・北海道』 1992年
  • 『県史3 岩手県の歴史』 細井計・伊藤博幸・菅野文夫・鈴木宏/著 2009年
  • 『ものが語る歴史25 蝦夷とは誰か』 松本建速/著 2011年
  • 『アイヌ学入門』 瀬川拓郎/著 2015年
スポンサードリンク



 

ご意見・ご感想は、稲用章

inayouアットマークa.email.ne.jp

までお願いします。