◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

第16回 奥羽直通路の開削

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 これまで、出羽国の最前線である出羽柵は、現在の山形県庄内地方にあったが、天平5年(733)12月26日に、秋田村の高清水岡(秋田市)に移転させられ、出羽国の範囲が北に拡充された。また、雄勝村に郡を建て、民を居住させた。なお、出羽柵は天平宝字元年(757)頃から秋田城と呼ばれるようになる。

 

 天平8年(736)4月29日、陸奥・出羽で功労のあった郡司と帰順している蝦夷27人に爵位が授けられた。

 

 翌天平9年(737)には、陸奥按察使大野朝臣東人(おおののあそんあずまびと)が、陸奥と出羽の直通路を貫通させたいと言上し、持節大使兵部卿藤原朝臣麻呂(ふじわらのあそんまろ。不比等の子で藤原四家のひとつ京家の祖)と、副使佐伯宿禰豊人(さえきのすくねとよひと)・常陸守坂本朝臣宇頭麻佐(さかもとのあそんうずまさ)らを陸奥国に進発させた。麻呂らは2月29日に多賀柵に到着し、東人と協議し常陸・上総・下総・武蔵・上野・下野の兵1000人を動員し工事を行った。ところが、それを知った蝦夷が疑いと恐れを抱いたので、蝦夷で遠田郡の郡領遠田君雄人(とおだのきみおひと)を海沿いの道に遣わし、蝦夷和我君計安塁(わがのきみけあるい)を山中の道に遣わし、蝦夷を説諭させた。そして勇敢な蝦夷を196人選んで東人に委ね、459人を玉造などの五つの柵に配した。麻呂らは残りの345人を率いて多賀柵を守り、宇頭麻佐は玉造柵(たまつくりのき。大崎市)を守り、大伴宿禰美濃麻呂(おおとものすくねみのまろ)は新田柵(にいだのき。大崎市田尻八幡)を守り、大掾日下部宿禰大麻呂(くさかべのすくねおおまろ)は牡鹿柵(おじかのき。東松島市赤井の赤井遺跡)を守った。

 

 2月25日、東人は多賀柵を進発し、3月1日には配下の紀朝臣武良士(きのあそんむらじ)らと兵や蝦夷を率いて色麻柵(しかまのき。宮城県色麻町近辺か)を発し、その日のうちに出羽国大室駅(山形県尾花沢市)に到着した。そこで出羽国守田辺史難波(たなべのふひとなにわ)と合流し、賊地に入り、道を開拓しながら進む。加美郡(色麻)から玉野(大室駅)までは160里、そこから先の比羅保許山(ひらほこやま)までは80里だ。東人が進んだのはここまでだったが、さらに雄勝村までの50里は二つの河を渡るという。

 

 今まで岩手県の内陸部に日本の影響力が及んだ形跡は、古墳時代(5世紀後半)の角塚古墳の築造以降しばらくなかったが、ここで和我君計安塁の名前が現れることから、この時点で和賀方面(岩手県北上市)まで朝廷の影響下に入っていたことがわかる。北上川の中流域もまだら模様に、朝廷に属する蝦夷とそうでない蝦夷が存在し始めたということだ。また、前述の通り、宮城県の北部には、この時点で玉造柵・新田柵・牡鹿柵・色麻柵があったことも確認できた。

 

 天平14年(742)正月23日、陸奥国から黒川郡以北の11郡に赤い雪が降り、平地で2寸つもったという報告があった。

 

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【参考資料】

  • 『日本書紀(下) 全現代語訳』 宇治谷孟/著 1988年 
  • 『天翔る白鳥 ヤマトタケル』 小椋一葉/著 1989年 
  • 『新版[古代の日本]9 東北・北海道』 1992年
  • 『県史3 岩手県の歴史』 細井計・伊藤博幸・菅野文夫・鈴木宏/著 2009年
  • 『ものが語る歴史25 蝦夷とは誰か』 松本建速/著 2011年
  • 『アイヌ学入門』 瀬川拓郎/著 2015年
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