◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

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南部晴政記事一覧

 少しでも南部地方(北は青森県東部から南は岩手県中南部にかけての地域)の戦国時代をご存知の方からすると、「なぜ晴政のことを滅亡した武将と呼ぶのか?」と疑問に思うはずだ。 晴政は、南部家の公式見解では第24代当主であり、一般的には積極的に他領に侵攻して南部氏の力を奥州に誇示した武将だと思われている。インターネットの百科事典であるWikipediaにも「若い頃から勇猛で知られており、家督を継いでから「...

 江戸時代に書かれた記録は数多くあるが、それらを元に明治時代に原敬の肝煎りで編纂された『南部史要』という書物がある(現在は「国立国会図書館デジタルコレクション」で読むことができる)。『南部史要』は、平成の世に至るまで何度も増刷され、南部地方の多くの人びとに愛読されてきた。そのためその影響力は計り知れない。したがって、江戸時代の資料の代表という形で『南部史要』を取り上げ、その中の晴政の項で書かれてい...

 天文8年(1539)6月14日、南部氏にとって大事件が起きた。晴政の居城である本三戸城(青森県南部町の別名聖寿寺館)が家臣赤松備中によって放火されてしまったのだ。 なぜ備中が本三戸城に放火したのかというと、二つの説があり、一つ目は備中が自領(青森県十和田市赤沼)の隣を治めていた奥瀬安芸と訴訟になった時、晴政が安芸に有利な判定を下したためそれを怨んだからだという説で、二つ目は備中の妻を晴政が宴には...

 天文9年(1540)には、高信の献策により晴政は岩手郡を巡検させ、雫石の戸沢政安のみ応じなかったので高信が兵を率いて政安を討った。南部氏の武威を恐れた岩手郡の諸氏は、これ以降南部氏の家臣になったとはいえないものの、南部氏の一定の影響力の下に働くことになった。また、南部氏は南下することにより志和郡の斯波氏と対立することになり、高信は兵を率いてそれに対処している。 岩手郡巡検の話は、晴政の事跡という...

 『南部史要』によると、元亀3年(1572)には津軽で騒動が勃発したので、晴政はやはり高信に兵を授けて津軽を平定させた。そして高信はそのまま石川城(青森県弘前市)に留まり、石川を氏として石川高信と名乗ることになった。 しかし実は、高信の石川城入りはもっと前のできごとである。というのも、南部藩の公式見解では高信は天正9年(1581)に没したことになっているが、津軽側の記録では、高信は元亀2年(157...

 前節までは『南部史要』に見える晴政の事跡を追ってみた。 しかしそこから見えてくるのは、晴政の弟(の可能性が高い)高信の事跡であり、晴政は本三戸城を放火されるという不行跡以外はまったく目立たなかった。 では、当時の一次史料から晴政を見てみるとどうなるであろうか? 晴政が中央の史料に名を登場させたことは二度ある。 一度目は、天文8年(1539)7月15日の『大館常興日記』(室町幕府幕臣の日記)に、奥...

 中央の史料には前述の二度しか登場しない晴政だが、地元の史料には数回登場する。 それらは「遠野南部家文書」といわれる一連の古文書群で、そのなかで6通の互いに関連した手紙があり、それによると当時糠部において南部家中の「内戦」といってもよいような状況が惹起されており、晴政はしきりに作戦行動に出ていたことが分かる。それら6通の手紙は惜しくも年が不明だが、『青森県史 資料編 中世1』ではそれらの手紙は永禄...

 戦国時代の南部氏が岩手郡に影響力を増やすことができたのは、やはり高信の活躍に拠るところが多いように思える。 しかし高信が岩手郡を攻略する第一歩となった一方井氏との婚姻は、『祐清私記』によると当時岩手郡に何のコネもなかった高信が九戸政実に仲介をお願いして実現したものであった。 政実は南部氏の同盟者であるので、高信は政実の力を借りて岩手郡に手を伸ばしたのである。当時の南部氏と九戸氏との関係は良好であ...

 晴政は男子に恵まれることがなく、生まれてくる子はすべて女子であった。女子であるので成人したのちは嫁に行くか婿を取ることになる。 通説では長女は信直を婿とし、信直は晴政から南部家を譲られる約束をされていたとされるが、それにもかかわらず、その後晴政に実子の晴継が誕生してしまったため晴政に疎まれ、信直は実家の田子に戻ったとされており、それが晴政と信直の確執の始まりとされている。しかし、この通説は果たし...

 父を討たれた信直は、大胆な行動に出る。三戸城間近の川守田の毘沙門堂に詣でて晴政をおびき寄せる作戦に出たのである。 『八戸家伝記』によれば、元亀3年(1572)3月、信直が川守田の毘沙門堂に詣でたときに、晴政が自ら三戸城を出陣し、信直を襲撃した。信直は近くの川守田常陸入道の館に入り防戦し、このとき鉄砲が晴政の馬に当たり、晴政は落馬してしまった。 おそらく晴政はこのときの怪我で床に伏せるようになり、...