◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

第1回 なぜ南部晴政が滅亡した武将だといえるのか?

 少しでも南部地方(北は青森県東部から南は岩手県中南部にかけての地域)の戦国時代をご存知の方からすると、「なぜ晴政のことを滅亡した武将と呼ぶのか?」と疑問に思うはずだ。

 

 晴政は、南部家の公式見解では第24代当主であり、一般的には積極的に他領に侵攻して南部氏の力を奥州に誇示した武将だと思われている。インターネットの百科事典であるWikipediaにも「若い頃から勇猛で知られており、家督を継いでから「三日月の 丸くなるまで 南部領」と謳われた南部氏の最盛期を築いたのは晴政の功績によるところが大きい」と記されている(2013年11月2日現在)。私と同じ世代(40代)より若い世代の戦国ファンに絶大な影響を及ぼしているゲーム『信長の野望』でも晴政は武力の高い武将として設定されている。

 

 しかし本当にそうであろうか?若い頃から勇猛で知られていたという話は事実であろうか?

 

 この後詳しく見るように、実は江戸時代に書かれた記録からも、戦国時代に書かれたリアルタイムの史料からも前述のような晴政像は見えてこない。しかも、晴政に関する戦国時代のリアルタイムの史料は非常に少ないから、晴政の史実を構築するのは至難の業なのである。もちろん、若いころの晴政のことなど何の記録も残っておらず、誰にも分からないのだ。

 

 晴政が他の武将に充てた手紙(古文書)や晴政について書かれた他の武将の手紙は数通残っているが、晴政自身が所有していた手紙や他の史料はまったく残っていない。

 

 南部藩の公式見解では、晴政の死後は子の晴継が跡を継ぎ、晴継の死後は晴政の甥(あるいは従弟)の信直が継いだことになっている。信直は戦国時代末期の英主であり、江戸時代の南部藩の基礎を築いた人物である。

 

 晴政没後から信直に至る過程において、晴政が所持した文書、さらにいえば晴政まで代々受け継がれてきたはずの先祖伝来の文書は、一切信直に引き継がれることはなかった。

 

 それはなぜか?

 

 実は信直は前代の晴継から正常に家督を譲られていないのである。そしてその信直の父高信は、南部家中において誰の子と認定するか江戸時代の終わりごろまで決めかねていたのである(これについは後述)。

 

 その血筋も定まらない高信の子である信直は、南部藩の公式見解においても、晴継没後の後継者選定において、信直腹心の北信愛らによって軍事力を以って擁立されたとされている。

 

 南部藩も認めている通り、信直は南部家の当主の座を簒奪した者なのだ。

 

 そして信直を事実上の祖とする南部藩は、晴政以前の文書を継承することができなかったので、晴政以前の歴史の大部分は闇の中に消え去ってしまった。

 

 南部藩は、晴政や晴継の生没年ですら確実に分かっておらず、しかも晴政や晴継の墓所も把握していない(『「祐清私記」を読む』)。中には晴政よりも先に子の晴継の方が先に没していたと書いてある記録もある。

 

 滅亡というと少しニュアンスが違うと思われるかも知れないが、敢えて本稿においては晴政を滅亡した武将として扱うことにした。なぜならば、後述する通り晴政はまさしく信直に「滅亡」させられたと言ってもよいような状況にあったからだ。先代を武力で討滅して跡を継いだとあれば、まさしく先代は滅亡したと考えて良いだろう。

 

 なお、江戸時代の書物のなかには南部家代々の当主から晴政と晴継を除き、それに代えて信直の父高信を当主にしているものもある(『「祐清私記」を読む』が引く『土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)』)。不可解な話である。

 

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第1回

第2回 >>

なぜ南部晴政が滅亡した武将だといえるのか?

弟高信を顕彰する『南部史要』の南部晴政の項

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