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第2回 弟高信を顕彰する『南部史要』の南部晴政の項

 江戸時代に書かれた記録は数多くあるが、それらを元に明治時代に原敬の肝煎りで編纂された『南部史要』という書物がある(現在は「国立国会図書館デジタルコレクション」で読むことができる)。『南部史要』は、平成の世に至るまで何度も増刷され、南部地方の多くの人びとに愛読されてきた。そのためその影響力は計り知れない。したがって、江戸時代の資料の代表という形で『南部史要』を取り上げ、その中の晴政の項で書かれていることを一つずつ検証していくことにしよう。江戸時代に形成された晴政像とはいったいどのようなものであろうか。

 

 まず冒頭、晴政が跡を継いだときはまだ幼かったので、叔父(実際は弟である可能性が高いがこれについは後述)の高信が晴政を補佐し、高信の施政が良かったので人民がみな喜んだとある。

 

 いきなり、高信を顕彰している。

 

 実はこの「高信顕彰」のトーンが『南部史要』の晴政の項の特徴なのである。

 

 つぎに、甲斐の武田晴信(のちの信玄)に使いを送り、「晴」の字をもらい、名を安政から晴政に改めたとある。そして一説には「晴」の字は晴信からではなく将軍義晴からもらったものであると記している。これは、後述する通り、後者が正しい。

 

 つづいて、天文3年(1534)、閉伊郡に騒乱が起き、高信が桜庭安房を先鋒としてそれを平らげたとある。

 

 これも高信の活躍を示したものである。

 

 南部氏と閉伊郡との関わりについては、『南部藩参考諸家系図』によれば、南部氏は南北朝時代に閉伊郡の沿岸部の一部に進出したとされるが証拠は無い。また、江戸時代の諸記録では、第13代守行が、永享9年(1437)に遠野(岩手県遠野市)まで遠征し、つづいて大槌(岩手県大槌町)まで足を伸ばし、そこで討ち死にしたとする。

 

 守行に関してはリアルタイムの史料で確認できず、架空の人物か、もしくは架空とまではいかないとしても江戸時代の記録で伝えられているような活躍はなかった人物と考えるのが正しいだろう。遠野市附馬牛町には守行の墓といわれるものが残っているが本物ではないであろう。しかもさらに言えば、三戸から閉伊に向うには、陸路であれば岩手郡や九戸郡を通る必要があり、南部氏が岩手郡を手に入れるのは、この後で述べる通り16世紀も半ばのことであり、九戸郡に関しては南部氏とは別勢力の九戸氏の領域である。したがって、守行が仮に実在の人物だったとしても、陸路遠野まで遠征し、さらに大槌まで足を伸ばしたというのは考えられない。

 

 南部氏と閉伊との関わり合いについてさらに述べれば、『聞老遺事』には、信時(第20代。晴政の曽祖父と伝わる)のときに、閉伊の田鎖党を討って平らげたとある。しかし、宮古地方の中世史を記した『古城物語』によれば、南部氏が宮古地方へ初めて兵を出したのは16世紀末のことであり、前述の天文3年(1534)に閉伊郡に騒乱が起きて高信が桜庭安房を先鋒としてそれを平らげたという話は、南部氏が古くから閉伊に強い影響力を持っていた事実を作りだすためと、高信を顕彰するためのねつ造と言えよう。

 

 『南部史要』では、ここまでですでに晴政よりも高信の方が目立っていることを気に留めておきたい。

 

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なぜ南部晴政は滅亡した武将といえるのか?

弟高信を顕彰する『南部史要』の南部晴政の項

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