◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

第4回 岩手郡を自身の権力基盤にした南部高信

 天文9年(1540)には、高信の献策により晴政は岩手郡を巡検させ、雫石の戸沢政安のみ応じなかったので高信が兵を率いて政安を討った。南部氏の武威を恐れた岩手郡の諸氏は、これ以降南部氏の家臣になったとはいえないものの、南部氏の一定の影響力の下に働くことになった。また、南部氏は南下することにより志和郡の斯波氏と対立することになり、高信は兵を率いてそれに対処している。

 

 岩手郡巡検の話は、晴政の事跡というより、現場で働いたのは高信であるので、やはり高信の活躍を喧伝した話である。

 

 高信はこの後、天文15年(1546)には岩手郡一方井(岩手県岩手町一方井)の一方井氏との間に子を儲けた。信直である。そして岩手郡内において着々と影響力を強める。

 

 高信が岩手郡内で高めた影響力は、やがて信直に引き継がれ、その力は次に述べる鹿角の戦いにおいて発揮されることになる。

 

 南部藩の主張によると、鹿角地方(秋田県鹿角市)は、第15代の政盛が隠居後に鹿角に入り、鹿角の小豆沢大日堂の文明18年(1486)の棟札に「大旦那源朝臣政盛公」と書かれているのを政盛隠居の証拠としているが、その文字は後になって棟札に書き加えられたもので、実際は、第23代安信の弟秀範が天文5年(1536)に毛馬内(鹿角市十和田毛馬内)に入部したのが始まりだと考えられる。

 

 鹿角には鹿角四頭と呼ばれる数多くの小さな豪族たちがいて、彼らは東からやってきた南部氏と西からやってきた安東氏との間で揺れ動いていた。

 

 天文の末年(1555)、出羽の安東愛季が鹿角に侵攻したが、毛馬内秀範がそれを防ぎ、南部氏と安東氏は和睦した。

 

 しかし、永禄9年(1566)になると再び安東愛季が鹿角の長牛城(鹿角市八幡平字長牛)に攻め込み、晴政は信直を将として、岩手郡の諸氏を統率させ鹿角を救援させた。このとき信直は21歳である。

 

 これまで実戦経験がないと思われる信直がいきなり惣大将となっているのは、おそらく名目上の大将で、実際はもっと力のある武将が周りを固めていたはずである。岩手郡の諸氏が信直の指揮下で働いているのも、高信が岩手郡をうまくまとめていたからである。

 

 信直は敵を退却させたが、その後も鹿角の混乱は続き、永禄11年(1568)かその翌年には、高信が来満峠越えで、九戸政実が七時雨山越えで鹿角に侵攻し、鹿角の混乱を収束させた。

 

 九戸政実は、私は南部一族と血縁関係にある小笠原一族であると考えており、南部家臣とは考えていないので、このとき政実が本当に鹿角に侵攻したとしたら、同盟関係にあった晴政の要請で援軍として赴いたものであると考える。

 

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岩手郡を自身の権力基盤にした南部高信

南部高信の系譜上での位置と没年

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