◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

第5回 南部高信の系譜上での位置と没年

 『南部史要』によると、元亀3年(1572)には津軽で騒動が勃発したので、晴政はやはり高信に兵を授けて津軽を平定させた。そして高信はそのまま石川城(青森県弘前市)に留まり、石川を氏として石川高信と名乗ることになった。

 

 しかし実は、高信の石川城入りはもっと前のできごとである。というのも、南部藩の公式見解では高信は天正9年(1581)に没したことになっているが、津軽側の記録では、高信は元亀2年(1571)の大浦為信の挙兵によって石川城で自害したことになっており、為信の津軽平定戦の経緯を考察した結果から津軽藩の記録の方が正しいと考えられるからだ。

 

 『南部史要』では、晴政に関する記述はもう少し続き、天正6年(1578)には、織田信長に駿馬と逸鷹を献じた。しかし、『信長公記』にはその記録は無い。そして、天正10年(1582)正月4日に亡くなり、享年66歳だったとある。

 

 晴政の没年に関しては、私は『南部藩参考諸家系図』に記されている元亀3年(1572)説を採る。その理由については後述する。

 

 さて、以上が『南部史要』に見える晴政の事跡であるが、ここまで見てきた限りでは、晴政は命令しているだけで影は薄く(本三戸城放火事件以外目立たない)、目立つのは高信である。

 

 それもそのはずで、何度も述べたとおり、高信は実質的な南部藩祖である信直の父であるので、南部藩が高信の活躍を喧伝しないはずがない。

 

 しかしその高信に関しては、実は南部藩自体、公式の見解として誰の子にするか逡巡していた。

 

 というのも、寛永18年(1641)に出された幕府の命によって幕府に提出された系図では、高信は晴政の弟となっているが、文化7年(1810)に提出した系図では、晴政の叔父となっているからだ。

 

 南部藩が高信を誰の子にするか確定するのに逡巡したということは、もしかすると高信は晴政の叔父でもなければ弟でもないのではないか、という考えも浮かばないでもない。

 

 しかしそうはいっても、江戸時代に記録された前述の高信の活躍が事実とすれば、高信は岩手郡を統率し、その後は津軽地方の拠点を任されるという、南部家中において非常に重要な任務に就いていることから、晴政にごく近い家族であると考えて良いと思う。

 

 晴政の生年も分かっていないことから断定はできないが、高信は天文15年(1546)に信直を生ませ、元亀2年(1571)に没していることから、晴政の叔父というより弟と考えるのが素直だと思う。

 

*** 東北の古代・中世史講座のご案内 ***


 クラブツーリズム新宿本社にて、2017年1月から1年間、月に1度東北地方の古代史と中世史の講座を開講しています。


 1年間かけて東北の古代・中世史を戦国時代の終焉からどんどん遡ってお話しするという内容です。


クラブツーリズムの詳細ページはこちら


 2018年も2017年の内容を増補改訂して開講しますので、興味のある方はどうぞいらしてください。

 

<< 第4回

第5回

第6回 >>

岩手郡を自身の権力基盤にした南部高信

南部高信の系譜上での位置と没年

中央の史料から見る南部晴政

スポンサードリンク



 

ご意見・ご感想は、稲用章

inayouアットマークa.email.ne.jp

までお願いします。