◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

第6回 中央の史料から見る南部晴政

 前節までは『南部史要』に見える晴政の事跡を追ってみた。

 

 しかしそこから見えてくるのは、晴政の弟(の可能性が高い)高信の事跡であり、晴政は本三戸城を放火されるという不行跡以外はまったく目立たなかった。

 

 では、当時の一次史料から晴政を見てみるとどうなるであろうか?

 

 晴政が中央の史料に名を登場させたことは二度ある。

 

 一度目は、天文8年(1539)7月15日の『大館常興日記』(室町幕府幕臣の日記)に、奥州南部彦三郎が将軍の一字を拝領したと記されているのがそれだ。

 

 この彦三郎は、通説では晴政のことであるとされ、晴政は初名を安政(『南部史要』)あるいは清政(「安俵小原系図」)といったのを、将軍義晴から「晴」の字の偏諱(へんき。一字を拝領すること)を受けて、晴政と名乗ったとされている。

 

 晴政が一字拝領を受けた日は、前節で述べた本三戸城の放火事件の約一ヶ月後だ。晴政は自ら京に赴いて将軍に謁見したと考えられる。三戸と京都との交通にかかる時間と京都に着いてから将軍に謁見するまでの時間を考えると、晴政は放火事件より前に三戸を出立した可能性が高い。今のところ晴政の上洛と放火事件の関連性は見いだせないが、もう一度よく考えてみる必要があるだろう。

 

 次に晴政の名が中央の史料に現れるのは、永禄6年(1563)に書かれた『諸役人附光源院殿御代当参衆並足軽以下覚書』という室町幕府に仕える諸氏族のリストで、その中には外様衆大名在国衆という括りと関東衆という括りがあり、関東衆に南部大膳亮と九戸五郎が記されている。この南部大膳亮というのが晴政のことであるというのが通説で、一方の九戸五郎は政実だといわれている。ただ、関東衆は外様衆大名在国衆より格式が下なので、晴政と政実はそれほど大きな勢力とは思われていなかったようである。

 

 南部大膳亮と九戸五郎が併記されていることについて、それを南部と九戸が別個の独立勢力であったことの証拠であるという研究者もいるが、例えば北条氏は氏康・氏政父子が並んで書かれているので、それをもって南部氏と九戸氏が別個の勢力であったという証拠にはならない。しかし、九戸氏は南部一族と血縁関係にあった小笠原一族である可能性が高いので、右記の史料が証拠にはならないものの、南部氏と九戸氏は別個の独立勢力である。

 

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南部高信の系譜上での位置と没年

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