◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

第9回 南部高信の自刃

 晴政は男子に恵まれることがなく、生まれてくる子はすべて女子であった。女子であるので成人したのちは嫁に行くか婿を取ることになる。

 

 通説では長女は信直を婿とし、信直は晴政から南部家を譲られる約束をされていたとされるが、それにもかかわらず、その後晴政に実子の晴継が誕生してしまったため晴政に疎まれ、信直は実家の田子に戻ったとされており、それが晴政と信直の確執の始まりとされている。しかし、この通説は果たして本当だろうか?

 

 晴政は既述した通り、生年も没年も史料で確かめることができないが、晴政は天文8年(1539)に上洛し、将軍義晴より「晴」の字をもらっている。

 

 仮にこのとき晴政が30歳だったとして、さらに長女が20歳のときに誕生しているとすると、長女の誕生年は1529年となり、信直の誕生年(1546年)とは17歳の差が生じる。妻が夫より17歳も年長というのは、この時代あり得るのだろうか?

 

 もちろん晴政やその長女の生年が分からない以上はこれも仮説になってしまうが、信直は晴政の長女を娶ったというのは近世南部藩のねつ造ではないかと思えるのだ。晴政長女と信直の結婚の話は、信直の南部家相続の後ろ暗さを少しでも緩和するために近世南部藩が作った話かもしれない。

 

 晴政にはそもそも信直を跡取りにしようなどという考えはなかったのであろう。

 

 信直をトップに立てた高信、南長義、北信愛らの行動に対して、晴政は一手を考えた。それが津軽にいた大浦為信を使う方法である。

 

 元亀2年(1571)5月5日、為信は、津軽石川城の高信を攻撃、高信は自刃して果てた。

 

 晴政は敵の首魁であり実の弟である高信を滅ぼし、密かにほくそ笑んだ。

 

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