◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

第10回 南部晴政の滅亡

 父を討たれた信直は、大胆な行動に出る。三戸城間近の川守田の毘沙門堂に詣でて晴政をおびき寄せる作戦に出たのである。

 

 『八戸家伝記』によれば、元亀3年(1572)3月、信直が川守田の毘沙門堂に詣でたときに、晴政が自ら三戸城を出陣し、信直を襲撃した。信直は近くの川守田常陸入道の館に入り防戦し、このとき鉄砲が晴政の馬に当たり、晴政は落馬してしまった。

 

 おそらく晴政はこのときの怪我で床に伏せるようになり、『南部藩参考諸家系図』が記す通り8月4日に亡くなってしまったのだろう。

 

 晴政が元亀3年に死亡したと考えられるもう一つの根拠として、高信を殺された信直の津軽出陣が元亀3年にあったことである。『封内事実秘苑』によると信直の反撃は元亀2年のこととされているが、その頃はまだ信直は晴政と戦っているので、津軽に出陣する余裕はないであろう。そのため信直の津軽出陣は『津軽一統志』に記されている通り、晴政没後の元亀3年であると考えられる。

 

 さて、晴政の死後、南部宗家の家督はどうなったのだろうか。通説では晴政の息子の晴継が継いだところ、晴継は相続後あまり時間の経過を経ずに病没あるいは暗殺されたとされている。この晴継という人物も実は没年に諸説があり、しかも晴政よりも前に死んだという記録もある。

 

 それらの記録が言っている通り、晴継は晴政よりも前にすでに亡くなっていたか、生きていたとしても相続直後、信直に殺されたのではないだろうか。父の仇の元凶である憎き晴政の息子を信直が盛り立てて南部家に仕えるなんてことはあり得ないはずだ。

 

 『南部史要』では、晴継は晴政の葬儀の際に兇漢に襲われ死んだと言いうが、そもそも謀反を企てた信直以下の諸将が、晴政の葬儀を行うだろうか。

 

 晴政葬儀での晴継暗殺事件は、暗殺者(逮捕されていない)を放った人物を九戸政実だということをにおわせておいて、政実は南部家を乗っ取ろうとする凶悪な人物だという印象を後世の人に持たせるために、近世南部藩がねつ造した話であると考えられる。

 

 また通説では、晴継の夭折によって、南部の一族や重臣が大集合して誰が跡を継ぐか話し合いが持たれたという。

 

 しかしこの良く知られた一族重臣会議も果たして本当に行われたとの証拠はない。信直は南長義や北信愛らに擁立され、武力で三戸城を占領し、南部家を相続した。そしてそのとき、信直勢と三戸城を守る旧晴政派の重臣たちとの間には戦いが行われ、晴継が生きていたなら信直に殺害されたと考えられる。なぜ戦いが起きたと言えるかというと、南部家にそれまで伝わってきた古文書類が信直に一切相続されていないからだ。混乱のさなか、旧晴政派が焼き捨ててしまったと考えられる。

 

 晴政は、信直によって滅亡させられた武将なのである。

 

 以上見てきたとおり、江戸時代やリアルタイムの史料からは晴政の英雄的事跡は見い出せなかった。しかし晴政に関する興味深い逸話が一つだけ残っている。江戸時代に書かれた『祐清私記』に収録された逸話だ。

 

 それによると、あるとき晴政の所蔵する刀が何者かに盗まれた。役人は刀番を処罰したいと晴政に願い出た。しかし晴政は、罪なき者を罰することはしないという。なぜならば、「刀を管理している場所へは奴僕は立ち入れず、刀は武器であるので、きっと剣を好む若侍の出来心であるに違いない。盗んだ者はその刀を持って、より奉公に徹したいと思うに違いない。だから表沙汰にせずに、打ち捨てておけ」ということだった。

 

 晴政は実はこのような大きな度量の持ち主だったのだ。晴政を貶める記録が多い中で、この逸話は爽やかな印象を私たちに与えるのである。

 

*** 東北の古代・中世史講座のご案内 ***


 クラブツーリズム新宿本社にて、2017年1月から1年間、月に1度東北地方の古代史と中世史の講座を開講しています。


 1年間かけて東北の古代・中世史を戦国時代の終焉からどんどん遡ってお話しするという内容です。


クラブツーリズムの詳細ページはこちら


 2018年も2017年の内容を増補改訂して開講しますので、興味のある方はどうぞいらしてください。

 

<< 第9回

第10回

南部高信の自刃

南部晴政の滅亡

スポンサードリンク



 

ご意見・ご感想は、稲用章

inayouアットマークa.email.ne.jp

までお願いします。