◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

4.通説の第2代実光 通説では2代目は実光が継いだという。『南部史要』には以下の事跡が記されている。 実光は甲州で生まれ、長子行朝が妾腹だったのでそれにかわって跡を継いだ。健久2年(1191)、対馬景満等に命じて、甲州の氏神正八幡宮を糠部郡滝沢村へ勧請し、永福寺を三戸に建立した。承久元年(1219)正月に将軍実朝が殺害されたあと、難を避け一門を率いて糠部へ下向し、先に述べた兄弟たちの分派を行なった。承久3年(1221)5月には、「承久の乱」への対応で糠部より出陣し、京都六波羅に入ったが、事件が決着したので糠部へ帰った。貞応元年(1222)4月15日には、先に滝沢村に勧請した八幡宮を櫛引村に遷した。暦仁元年(1238)正月(正確にはまだ暦仁に改元されておらず嘉禎4年)、将軍頼経の京都行きに隋兵し、建長4年(1252)、宗尊親王が将軍になったときにも隋兵に選ばれた。 上記の事跡の裏づけをするために『吾妻鏡』から実光に該当する人物を拾ってみると、  ・前述した嘉禎4年(1238)2月17日の「南部次郎 同三郎」  ・仁治元年(1240)8月2日の「南部次郎」  ・建長4年(1252)8月1日の「南部次郎実光」  ・同年12月17日の「南部次郎実光」  ・建長5年(1253)8月15日の「南部次郎実光」  ・建長6年(1254)8月15日の「南部次郎実光」  ・弘長元年(1261)正月9日の「南部次郎」  ・弘長3年(1263)11月20日の「南部次郎」  が抽出できる。『南部史要』の将軍頼経の隋兵の件と宗尊親王の隋兵の件は、それぞれ『吾妻鏡』の嘉禎4年(1238)2月17日の件と建長4年(1252)8月1日の件と一致している。 『南部史要』のなかで本稿が特に問題とするのは糠部との関わりであるが、糠部へ下った件は史料が残っておらず、史実として証することはできない。糠部から京へ攻め上ったという承久の乱の件も不審である。承久の乱では伯父の小笠原長清が活躍しているので、実光がもし参戦していたとすると、伯父に従って甲斐の南部郷から出陣したものであろう。 『南部史要』にはほかに糠部に関する実光の事跡が三点ある。一つ目は、健久2年(1191)の正八幡宮の滝沢村への勧請。二つ目は、同年の永福寺の三戸建立。三つ目は、貞応元年(1222)4月15日の滝沢村から櫛引村への八幡宮の遷宮である。一つ目と三つ目に関しては、後の章で述べる。二つ目の永福寺は、現在盛岡市下斗米にある永福寺の前身を指しているようだ。永福寺はもともと、坂上田村麻呂が建立した伝説を持つ奥州六観音のひとつで、現在の八戸市豊崎町にあった楢崎観音であり、それが三戸(青森県南部町沖田面字早稲田)を経て盛岡の現在地に移されたと伝わっている。しかし、『近世こもんじょ館』が引く『竹田伽良倶理』には、永福寺が七崎(八戸市豊崎町)から移転してきたとは伝えておらず、建久2年(1191)に鎌倉永福寺門徒宥玄によって建立されたとあるという。これは「光行糠部拝領下向説」の伝承に合せて作った寺伝であろうが、永福寺の建立の件も糠部南部氏創世記の謎の一つである。 実光が実在の人物であることは『吾妻鏡』によって確認できたわけだが、光行の子である証拠は無い。そして、既述したとおり、『吾妻鏡』では、建久6年(1195)5月21日に「南部三郎光行」が現れてから、嘉禎4年(1238)に「南部次郎 同三郎」が登場するまで、40年以上南部氏は現れない。 [次へ進む] 5.得宗被官化と奥州との関係 40年以上の間、鎌倉での表立った活動を停止していた南部氏は、その間、徐々に北条得宗家との関係を緊密化していき、再び世に出る機会を窺っていたと考えられる。 『吾妻鏡』に実光の名が頻出する建長4年(1252)から同6年の間は、執権時頼の権力が安定してきた時期にあたり、実光は時頼に近い人物として幕府の儀式に参加していたようだ。弘長3年(1263)には、時頼の臨終間際の枕元に呼ばれた七名の中のひとりとして記されており、いかに時頼に信頼されていたかがわかる。その時の他の六名を列記すると、武田五郎三郎(政綱)、長崎次郎左衛門尉(光綱)、工藤三郎左衛門尉(光泰)、尾籐太(景氏)、宿谷左衛門尉(光則)、安東左衛門尉(光成)であり、それら御内人の面々とともに重要な場にいること自体、実光が既に得宗被官化、すなわち御内人になっていることの証左となるであろう(長崎次郎左衛門尉と工藤三郎左衛門尉の諱は、『鎌倉政権得宗専制論』によった)。なお、建長4年以降はすべて、甲斐源氏の本家筋に当たる御内人武田五郎三郎政綱と並んで現れることも何かを示唆していそうだ。 南部家は、得宗被官となったことにより幕府から見ると陪臣化してしまったようにみえるが、おそらく御家人としての地位も保っていたと考えられ、表面的には御家人でありながら、内実は御内人として活動していたと考えられる。御内人は、得宗の代官(地頭代)として各地の得宗領の管理を任されていたから、南部氏が奥州と関わりを持った原因は、御内人として奥州の地頭代に任命されたことであろう。ただし、現在のところ史料でそれを裏付けることはできない。 実光は『南部史要』によれば、建長6年(1254)11月25日に鎌倉で没し、享年は74歳だったというので、逆算すると1181年の生まれとなる。しかしこれは、『吾妻鏡』に「南部次郎実光」が最後に現れるのが、建長6年(1254)8月15日であることから、それに依拠して後世に創作した没年と考えられ、生年は実際は1195年頃ではないだろうか。なお、青森県南部町の三光寺には、実光の墓と伝わっている墓石が現存するが、これも「光行糠部拝領下向説」に基づき、あとから結びつけた物であろう。 なお、『吾妻鏡』の弘長元年と同3年の「南部次郎」は、実光ではなく別の人物(時実か他の人物)だという見方もあるが、本稿では実光のこととしておく。また、実光の通称は、江戸時代にかかれた各書には「彦二郎」あるいは「彦次郎」となっているが、『吾妻鏡』では、今まで見てきたとおり、単に「次郎」となっている。 [次へ進む] 6.通説の第3代時実 通説では3代目は時実が継いだという。『南部史要』には奥州での事跡がひとつも記されていない。『吾妻鏡』から時実に該当する人物を拾ってみると、  ・建長4年(1252)4月14日の「南部又次郎時実」  ・同年7月8日の「南部又次郎時実」  ・同年9月25日の「南部又次郎時実」  ・建長8年(1256)7月17日の「南部又次郎時実」  ・弘長元年(1261)9月3日の「南部又次郎」  が抽出できるので、実在の人物であったことは確かであろう。 時実は、『南部史要』によれば、文永元年(1264)正月19日に鎌倉で没し、享年は53歳だったというが、これも実光と同じく『吾妻鏡』を参考にして、後世になって考え出した没年だろう。ただ、逆算すると1212年の生まれとなるが、父実光が1195年頃の生まれとすると、時実は、1220頃の生まれと考えた方がいいだろう。 [次へ進む] (2)通説の第4代政元以降 1.通説の第4代政元 通説の第3代時実につづいて、通説の第11代信長までの系図を以下に掲げる。 上記系図をみるとわかるが、弟の跡を兄が継いだ事例が二度あり、第9代から第10代への継承は従弟から従兄へとなっている。これが事実だとすると異様な継承例なので、果たして事実かどうか、第4代以降、順を追って確認してみる。 通説の第四代政元は、『寛永系図』には名のみで事跡が書かれていない。『文化系図』には政光という名で記されており、初名を政元といったとある。母と妻は不明で、次男だが嫡腹なので家を継ぎ、文永2年(1265)7月23日に没し、三光庵(青森県南部町の三光寺)に葬ったとある。『南部史要』でも政光と記載されており、こちらは時実の長子とし、母は波切井氏とあり、文永2年(1265)7月22日に鎌倉で没し、享年は15歳だったという。いずれの書も、前代の時実までは事跡が記されているのに対し、政元に関しては、何をしたのかひとつも記されていない。『南部史要』で、政光が時実の長子と記されているのは次で述べるとおり矛盾している。 [次へ進む] 2.通説の第5代宗経 通説の第5代宗経も、『寛永系図』には名のみで事跡が書かれていない。『文化系図』には、母は家女で妻は不明とあり、実は時実の長男で、政光が早世して嗣子がいなかったので跡を継いだとある。そして、弘安6年(1283)5月17日に没したという。『南部史要』では、時実の三子とあり、没年は『寛永系図』と同じである。『南部史要』には享年38歳と記されているので、逆算すると1246年生まれとなり、1251年生まれの前代の政光(政元)よりも年上となり、政光が兄で宗経が弟だとする記述と矛盾が生じている。 『南部史要』には、政光は初め子供がいなかったので弟義元の長子義行を跡継ぎとして定めたが、義行が甲州に出奔してしまったので、宗経が跡を継いだとある。甲州へ出奔したという点については、政元らが甲州以外にいたということを意味するが、これはその時既に南部本家は糠部にいたこと(「光行糠部拝領下向説」)を前提にして創作された話であろう。もし出奔するならば、「甲州へ」ではなく「奥州へ」としたほうが、実は事実に即しているかもしれない。 3.通説の第6代宗行以降 通説の第6代宗行から第9代祐政までは、『寛永系図』、『文化系図』、『南部史要』のいずれにも事跡は一切書かれていない。彼らの名前は他の史料にも見当たらず、実在を証明することはできない。 三戸南部氏の系図の祖形を作ったのは、通説の第26代信直に尽くした、戦国時代の南部きっての智将北信愛だという。信直は、前代晴継から文書類をしっかり継承できなかったので、信愛が新たに南部氏の系図を作成したわけだが、その際、何の根拠もなく名前と親子関係を創作したとも思えず、わずかな記憶を辿って、伝承されている名前を順に並べていったと考えることもできる。従って、通説の第6代宗行から第9代祐政まで、親子関係等は信を置けないが、全員架空の人物であると言い切ることもできないだろう。名前のみは実在の可能性がある。 通説の第10代茂時は、『岩手県史』で述べられているとおり、『太平記』の「高時并一門以下於東勝寺自害事」に記された「南部右馬頭茂時」という人物を、北信愛が系図を作成した際に三戸南部氏の家系に取り込んだものであると考えられる。南部右馬頭茂時とは、鎌倉の北条茂時(南右馬権頭)のことである。ただし、『山梨県南部町誌』には、南部町の新羅神社に茂時が神詞を奏したと記されており、南部諏訪神社神官若林家所蔵の南部系図には、政光の子として茂時があり、「実北条相模守熈時次男」と書かれている。熈時は煕時のことで第12代執権である。その子茂時(連署を勤めた)が南部家に養子に入ったといいたいのだろうか。 (3)南部宗家又次郎師行 1.師行らの系譜 ここまで見た限りでは、南部氏と奥州との結びつきは非常に希薄といえよう。しかしそれにも関わらず、南部藩が歴代当主の代数を数える時は、光行から数える。どう贔屓目にみてもここまでは「奥州南部氏」とは呼べず、通説の第三代時実以降の奥州での活躍は、史実で証明するどころか、伝承すら残っていない。しかし既述した通り、「光行糠部拝領下向説」は論外としても、鎌倉時代の後半において南部氏が糠部に所領を得た可能性は充分にあると考える。なぜならば、既述した通り南部氏は北条得宗家の被官(御内人)であったと考えられ、そうだとすると、工藤氏や曽我氏のように奥州に散在する得宗領に地頭代として派遣されたことは当然にあり得るからである。地頭代として派遣された場合、その土地を私有化して自らの所領としたとしてもごく自然なことである。ただし、残念ながら曽我氏のようにそれを証する史料が残っていないので、今のところは仮説の域を出ることができない。 それでは前章で述べた、鎌倉攻めに参加した時長・行長父子と政長、それと奥州小幕府に参画して糠部に下っていた師行らは、上述の南部氏の誰の子孫なのだろうか。 「南部時長・師行・政長陳状案」自体は、土地相続に関して南部武行が時長兄弟に対して起こした裁判の時長兄弟側の陳状の下書きであるが、その内容をそっくり系図に起こすと以下のようになる。 これで、奥州に関わりを持つことが史料上で初めて確認できた師行ら兄弟が、光行嫡系の子孫であることがわかった。しかし、「南部時長・師行・政長陳状案」によると、時長兄弟は時実の遺領を宗実・武行に横領されて、南部宗家を継ぐことができていない状況にあったようだ。また、政行の嫡子は上記系図をみると時長に見えるが、実は師行であったと推測できる点もある。以下に、それらについて推測をしてみる。 [次へ進む] 2.宗実・武行父子の野望 まずは、時実の遺領が宗実らに横領された経緯を推測するために、『青森県史 資料編 中世1』所収の『波木井南部氏系図』の一部を以下に掲げる。同系図は同書の解題によると、甲斐波木井氏の室町時代中期までを記したもので、作成時期は系の記述の終わっている室町時代中期とされる(波木井氏は、根城南部氏の祖だというのが通説であるが、それについては後述する)。 「南部」を実光とすると、孫次郎が時実にあたるようにも思えるが、上記系図は波木井家の系図なので、その他の系には頓着していないと推測し、宗実は孫三郎という名乗りから、確かに光行の孫であるが、孫次郎と次郎行宗は一世代下にあたると仮定する。孫次郎は孫二郎政元、次郎行宗は二郎政行のことと仮定する。 上記系図に、既述した「南部時長・師行・政長陳状案」の系図(「系図5」)を合成してみると、以下の仮説系図ができあがる。 仮説上の継承劇は以下の通りである。 第4代政元(政光)が亡くなったとき、『南部史要』に記されているとおり、政元には子供がいなかった。そこで、本来なら弟の次郎政行が継ぐはずが、政行が幼かったため政行の叔父の孫三郎宗実が時実の養子に入り5代目の当主となった(このため通説では宗実は時実の子となっている)。宗実にはもともと南部宗家を継ぐ野心があったのだ。しかしこのときは、「南部時長・師行・政長陳状案」によると、政行が度々抗議して、延慶3年(1310)に一度和解が成立した模様である。しかし、それから政行が没したあと、宗実の子武行が、妻の実家長崎家の権力を使い、再び横領し、おそらく時長兄弟は実力でそれを阻止しようと行動に出て、武行から訴訟を起こされたものであると思う。 [次へ進む] 3.本来の南部第6代宗家又次郎師行 「系図7」で、師行には兄時長がいるにも関わらず、「本来なら6」として政行の後継者に仮定したのは、長男の時長が政行の実子ではないと考えるからである。理由は五郎次郎という名乗りである。五郎次郎であれば、父や先祖に五郎という人物がいるはずだが、政行は五郎ではなく次郎であり、その父祖にも五郎はいない。『三翁昔語』(『青森県史 資料編 中世1』所収)の『南部次郎政行入道道行之御連子書』には、政行の子に五郎太郎貞長という者がおり、父に先立って死すとある。この五郎太郎貞長と五郎次郎時長は、おそらく一族の五郎某(現存する系図には現れない)という人物の子であり、何らかの理由で政行が二人を引き取って子としたのであろう。おそらく、政行の正室に子がなかなか生まれないので、最初貞長を養子にしたがすぐに死んでしまい、続いて時長を養子にしたところ、ようやく正室が師行を生んだのではあるまいか。 このように本来は宗家を継ぐはずであったと推測される師行は、弟政長とともに鎌倉幕府が滅亡したあと、本拠地である甲斐を遠く離れた奥州で活躍することになる。その様子については次章以降で述べる。 4.幻の波切井南部氏 南部氏の歴史を述べる場合、波木井南部氏についても言及しなければならない。 まず、「はきい」の表記に関しては、「波木井」、「波切井」、「破切井」などがある。「波切井」、「破切井」という表記は、奥州で書かれたものに見受けられる。甲斐では「波木井」と書く。 波木井南部氏自体は、別に幻でも何でもなく、初代光行の子実長をその祖とする。 『身延鑑』によると、その系は甲斐で綿々と続き、大永7年(1527)12月23日、当主波木井三河守義実日浄が、武田氏との戦いに敗れ自害したことにより滅亡したという。では、なぜ幻などというのであろうか。それは、三戸南部氏と並び称される根城の八戸南部氏が、従来は甲斐の波木井氏の直系であると称していたのが、近年の研究で波木井氏の系統ではないということがわかったからである(『青森県史 資料編 中世1』)。すなわち、八戸根城南部氏は自身の血統について誤った家柄を後世に伝えていたのである。 従来の説では、実長の跡を実継が継ぎ、その跡を長継が継ぎ、長継には貞継という子がいたが、早世したため、一族の政行の子師行が養子となった。そして師行が奥州へ下向し、その系が八戸根城南部氏となり南部藩の支藩といっても良い遠野の領主へと綿々と続いていった、としていた。 したがって、八戸根城南部氏の代数を数える時は、実長を初代とし、師行は第四代と数える。しかし、長継の養子に師行が入ったというのは、江戸時代に作られた虚構であることが判ったので、八戸根城南部氏が実長の系統とする従来の説は誤りということになる。しかも、長継がもし実在の人物だとしても、長継の系統は波木井氏の直系ではなく、波木井氏の直系は実長の長男(長継の兄)長義なのである。この系が後年武田氏に滅ぼされたわけであるが、もしかするとその末裔が糠部にやってきて八戸根城南部氏を継いだ可能性がある。それについては、のちの章で述べる。
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