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第1回 初代光行

 12世紀の頃、甲斐国加賀美庄(山梨県南アルプス市加賀美)に、加賀美(加々美)遠光という武将がいた。遠光は、清和源氏の流れを汲む甲斐源氏免見清光の子で、新羅三郎義光の曾孫にあたる。遠光には、長男太郎光朝(秋山氏の祖)、次男二郎長清(小笠原氏の祖)、三男三郎光行らの子がおり、光行が本稿において記述の中心に据える南部氏の祖である。

 

 

 なお、上記系図では先祖を清和天皇として、一般的にはその後裔を「清和源氏」と呼んでいるが、星野恒氏によると、源頼信が石清水八幡宮に納めた願文の中で、頼信自身が「自分は陽成天皇の末裔である」と言っているといい、経基王は陽成天皇の孫であるという説もある。

 

 さて、治承4年(1180)4月27日、平清盛以下の追討を促す以仁王の令旨が源頼朝のもとに届けられ、8月17日の深夜、頼朝は伊豆目代山木兼隆の館を襲撃した(『吾妻鏡』)。以仁王の令旨は甲斐にも届けられており、遠光の次兄武田信義も、甲斐源氏を率いて兵を挙げた。当時信義は、長兄逸見光長をしのいで、甲斐源氏の惣領的な地位に立っていたという(『武田信玄のすべて』所収「甲斐武田氏の系譜」)。なお、このときの甲斐源氏の挙兵について『山梨県南部町誌』は、「頼朝に要請されての出兵ではなく、独自の判断で平家討伐の行動を起こしたと考えられる」と述べている。

 

 甲斐源氏挙兵時の光行の動きだが、『山梨県南部町誌』によると、光行の父遠光は長男光朝と次男長清を京都で平知盛に仕えさせていた関係もあり、挙兵には消極的で兵を動かした痕跡がないとしているので、父とともに動静を窺っていたと考えられる。

 

 光行はある時(時期不明)、甲斐国南部郷(山梨県南部町)に移り住んで苗字を南部に改めた。南部郷に移り住んだ理由は、南部郷を父から与えられたためとも、頼朝挙兵直後の石橋山の合戦で手柄を立て、頼朝から賜ったためともいうが、『吾妻鏡』の石橋山の合戦の記述に光行の名は無く、当時の惣領制を勘案すると、遠光が頼朝から安堵された土地の中に南部郷が含まれていて、それを光行が分割相続したと考えるのが自然であろう。

 

 『吾妻鏡』に光行の名前を求めてみると、文治5年(1189)6月9日に、鶴岡八幡宮御塔供養の先陣の隋兵として「信濃三郎光行」の名で現れ、同年7月1日の鶴岡放生会にも供奉している。7月19日には、奥州平泉の藤原泰衡を征伐するために出陣した武将たちの中に、「南部次郎光行」として、初めて南部の苗字を冠して現れる(ここでは三郎ではなく次郎となっているが誤記か)。そして、12月に頼朝に従い鎌倉に凱旋した。通説では、光行は泰衡征伐で功をあげ、勲功の賞として頼朝から糠部五郡を拝領したというが(いわゆる「光行糠部拝領下向説」)、それを証する史料は存在しない。『吾妻鏡』にも、とりたててそのような記述はない(「光行糠部拝領下向説」については後述する)。

 

 つづいて、鎌倉凱旋から11ヶ月後の建久元年(1190)11月7日に「信濃三郎」、同年同月11日に「信濃三郎光行」と現れる。翌健久2年(1191)には現れず、「光行糠部拝領下向説」では、この年に光行の名が現れないのは糠部郡へ下っていたからだとする。もちろんそれは、「光行糠部拝領下向説」に基づく推定にすぎない。

 

 さらに『吾妻鏡』から光行の名を拾ってみると、

 

  • 建久3年(1192)11月5日の「信濃三郎」
  • 同年同月25日の「信濃三郎光行」
  • 建久6年(1195)年3月10日の「南部三郎」
  • 同年4月15日の「南部三郎光行」
  • 同年5月20日の「南部三郎光行」
  • 嘉禎4年(1238)2月17日の「南部次郎 同三郎」

 

 とつづき、これ以降現れなくなる。建久3年までは「信濃三郎」と記されていることが多いことから、まだその頃までは世間では光行が南部家として独り立ちしたと認識していなかったのだろう。

 

 建久6年(1195)年以降は、嘉禎4年(1238)まで40年以上光行は現れないが、光行だけでなく、他の南部家の人物も現れない。

 

 光行の母に関しては、『青森県史 資料編 中世1』所収『文化七年系譜書上』(『文化系図』)には「母和田左衛門尉義盛妹」とあり、『南部史要』には『東奥旧史集』に佐々木秀義の女と記されているとある。また『山梨県南部町誌』は、『笠系大成』に三浦義澄の女という異説があることを記している。

 

 もし光行の母が和田義盛の妹だったとすると、建暦3年(1213)に和田一族が族滅した際、その影響を蒙り、一時期表に出にくい状況にあったのかもしれないが、建久7年(1196)から和田氏が滅亡した建暦3年までの約17年の間も現れないのは不審である。となると光行が現れなくなる本当の理由としては、建久7年からの3年間は『吾妻鏡』自体の著述が欠けているので、その間は鎌倉での活動があったと考え、正治元年(1199)の頼朝死去を契機として鎌倉での活動が停止してしまったためと考えるのが自然である。『山梨県南部町誌』でも述べられている通り、光行などの加賀美一族は、頼朝個人にかなり依存した存在であり、頼朝がいなくなるとともに自動的に表舞台から引かざるを得ない状況であったと考えられる。頼朝没後に、頼朝恩顧の御家人たちが北条氏によって次々と滅亡させられていく情勢下で、光行は兄長清ほど頼朝に重用されていたわけでは無いにしろ、慎重を期して甲斐に逼塞していたのだろう。

 

 光行は、『南部史要』によれば、建保3年(1215)11月21日に鎌倉で没し、享年は69歳だったという。逆算すると1147年生まれとなる。しかし、史料上で生没年を確認することはできない。光行の兄である小笠原長清は、『続群書類従』「小笠原系図」によると応保2年(1162)生まれなので、これが正しいとすれば、『南部史要』の享年に関する記述には信をおけなくなる。光行は、1165年頃の生まれとするのが妥当であろう。なお、嘉禎4年(1238)2月17日の件は、第四代将軍頼経上洛の供として見えるので、光行に想定するのはその年齢の高さからして難しい。「源氏南部八戸家系」(『青森県史 資料編 中世1』所収)によると、このときの「三郎」は光行の子(次郎実光の弟)の波木井実長のこととしている。ただし、実長の通称は六郎(『青森県史 資料編 中世1』所収「波木井南部氏系図」)、あるいは小四郎(『尊卑分脈』)である。「源氏南部八戸家系」では最初は三郎だったが後に六郎になったとしているが、説得力に欠ける。『尊卑分脈』では、実光の弟に三郎行朝がいる。時代的にも合うので、上記の「三郎」は行朝であろうか。

 

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「第2回 光行糠部拝領下向説」はこちら

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