◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

第2回 光行糠部拝領下向説

 既述したとおり、光行は泰衡征伐の戦功により頼朝から糠部五郡を拝領したという言い伝えが残っているが、『南部史要』によれば、それは以下のような内容である。

 

 健久2年(1191)10月(『奥南旧指録』では承久元年(1219)12月)、光行は新領地糠部へ赴かんと、家臣従僕合せて73人で船に分乗し、甲斐国南部郷を出た。海路で糠部を目指そうというわけである(南部郷には富士川という大河が流れ、駿河湾に注いでおり、甲斐と駿河との間の南北の重要な交通路となっていた)。一行は12月28日に八戸浦(青森県八戸市)に上陸した。しかし、そこにはとどまらず三戸まで進み、相内村観音堂(青森県南部町相内)に一泊した。そしてこのとき、田子村の郷士田子丹後が富裕で邸宅が美かったことから、光行は田子丹後の家に入り、人夫を集めて周りに堀を掘らせた(『奥南旧指録』には田子丹後は出てこず、相内村観音堂で越年したという)。年末に到着して慌しかったので、大晦日を1日遅らせ、元日を2日とした。これを「南部の私大」といい、後世に伝わった。

 

 新年には、村民居猿山総左衛門(蛇沼惣左衛門)、総米(相米)弥左衛門、上砂子喜左衛門(上参郷喜右衛門)らが、酒や食べ物などを献じてきて、春には、三戸郡平ヶ崎(南部町平ヶ崎)にて築城を開始した。9月には城が竣成したので、光行は鎌倉へ戻った(平ヶ崎には平ヶ崎館跡が現存するが、いつ頃築城されたものかは不明である)。『奥南旧指録』では相内にいたときに、相米・蛇沼両氏の計らいで、田子より佐々木氏、原氏、斗内氏、福田氏、豊川氏、日沢氏が来て従ったとある。

 

 光行が頼朝から糠部を賜り、その直後に下向したという上記の話は、かつては多くの人々に信じられていた。これをそのまま史実として受け入れることは無理だが、伝承の内容が豊富なことから、これはある程度事実であり、そしてそれは、おそらく守行の事跡と考えられる(それについては別稿で述べる)。

 

 現在では史料の不在や当時の政治状況を鑑みて、光行が糠部を拝領した事実や奥州へ下向したという事実はなかったというのが定説となっている。甲斐南部氏が糠部へ下向したのは、もっと後になってのことである。自家の歴史を古く、かつ権力があったように見せたがる例はよく見聞きするが、江戸時代に作成された南部藩の息がかかった書物からもその匂いを感じ取ることができる。南部藩が「光行糠部拝領下向説」を創作した理由は、かなり根の深いもので、津軽藩との関係など、複雑な事情が絡んでいるものと考えられる。

 

 なお、建久あるいは承久年間では無いとしても、外洋を航海したとなると、既述したとおり、光行の母が三浦義澄の女という説があることからも、三浦氏などの航海に精通した氏族の支援を得た可能性が高い。

 

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 第1回 初代光行 第3回 家臣みな南部庶流系図 
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