◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

第3回 家臣みな南部庶流系図

 ところで、江戸時代の南部藩は、上記「光行糠部拝領下向説」に加えて、南部藩主として一族家臣を支配しやすいように、「家臣みな南部庶流系図」と呼んでもいいような系図を作り上げた。主な南部家臣の先祖を光行の子らに結びつけた系図である。例えば、『文化系図』(文化7年(1810)に南部藩が編纂した系図。『青森県史 資料編 中世1』所収)には、光行の子として5人の名が記されている。上から行朝、実光、実長、宗朝、行連である。長男行朝は一戸氏の祖、次男実光は南部氏を継ぎ、三男実長は波木井氏(八戸氏のこと。後述する)の祖、四男宗朝は四戸氏の祖、五男行連は九戸氏の祖になったという。『南部史要』では更に、朝清の名も加わり、久慈・七戸氏の祖とされる。それら5人ないし6人の兄弟の子孫からも更に一族が分派し、南部家臣となったとしている。それらの関係を、『寛永系図』(『青森県史 資料編 中世1』所収。寛永18年(1641)に編纂)、『文化系図』、それと『南部史要』を参照して以下に掲げる。なお、南部藩に伝わる最古の系図とされる『寛永系図』では、各代の親子関係については、初代光行が遠光の三男であると記された以降、通説の三戸南部氏22代政康が21代信時の二男と記されるまで何も記されていない(毎回、長子が相続したようにみえる)。生没年に関しては、『寛永系図』には未記載、『文化系図』には没年のみ記載、『南部史要』では、没年と享年を記載している(図中の寛・文・史は、それぞれの資料に記された事柄から特に重要と思われる事項や本稿での註を記述したものである。また名前の上の数字は通説上の当主の代数を表す)。

 

 

 南部藩は上記系図を作って、主だった家臣の先祖をみな南部氏の庶流に設定した。それにより、長幼の順や嫡流・傍流の別を重視する当時の倫理観で家臣を縛り、支配しやすい状況にした。また、皆が一族であると考えることにより精神的な一体感が出ることも計算済みである。なお、上記系図のうち『吾妻鏡』で実在が確認できるのは、光行、実光、時実だけである。

 

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「第1回 初代光行」はこちら


 

「第2回 光行糠部拝領下向説」はこちら

 

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