◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

 

 

 

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平将門の乱記事一覧

 「平将門の乱」を簡単に説明すると、下総(茨城県・千葉県)・常陸(茨城県)方面に勢力を張っていた、桓武平氏の平将門の一族が、一族内でいざこざを起こし、それが発展して天慶2年(939)に将門は国家に対して反逆を起こすことになり、結果的に将門は坂東(関東地方)を制覇して「新皇」と称して日本からの独立宣言を行い、日本国家からの褒賞に期待を寄せて出陣した下野(栃木県)の有力者・藤原秀郷や将門の従兄弟で父を...

 前回述べた延長9年(931)の「女論事件」よりも前、将門やその従兄弟の貞盛は、ともに都に出て出世の道を模索していたが、将門はついに位階や官職を得ることがなく、おそらく父の死によってだと思われるが、故郷の下総に帰った。 当時の中央の権力者は、延長8年(930)に朱雀天皇の摂政になった藤原忠平だったが、将門は少年の頃に忠平に名簿(みょうぶ)を差し出している。 名簿とは名刺のようなもので、それを差し出...

 宿敵源護(みなもとのまもる)に訴えられ上京した将門は、検非違使庁で道理にかなった陳述に務めた。 将門のことなので、おそらく自信たっぷりに堂々と振舞ったに違いない。 その甲斐あってか処罰は重くなく、そればかりか、この一件で将門の武勇は畿内一円に知れ渡り、将門は面目を一新した。 そしてそうこうしているうちに恩赦の発表があり、将門は自由の身になり、承平7年(937)5月11日をもって都を後にした。 将...

 当時、武蔵国足立郡(北は埼玉県鴻巣市から南は東京都足立区にかけて)の司に武蔵武芝(むさしのたけしば)という人がいた。 武芝の家は代々足立郡を治めてきており、武芝も民に慕われる郡司かつ武蔵国の判官代だった。 そこに新任の武蔵権守興世王(おきよおう。権守は国の長官の仮の官)と武蔵介源経基(みなもとのつねもと。介は国の次官)が着任した。 経基は、源頼朝の先祖にあたる。 清和天皇(あるいは陽成天皇)――...

 その頃、常陸国の藤原玄明(ふじわらのはるあきら)らは、民の収穫物を盗み、国には全然税を納めず、地域の政治を乱していた。 常陸の長官の藤原維幾(ふじわらのこれちか)は、悪行を重ねる玄明に業を煮やし、太政官に訴えたため、玄明は妻子を連れて下総に逃れる。 玄明の逃れた先には将門がいた。 将門は元々義侠心に溢れる男だったので、意気消沈して逃れてきた玄明を匿まった。 玄明は維幾を恨んでいたため、将門の力を...

 天慶3年(940)正月11日、将門を討伐した者に恩賞を与える旨の太政官符(だいじょうかんぷ)が、東海道・東山道に対して下された。 もし将門を殺せば、五位以上の位階に叙せられる約束だ。 つまり、一躍貴族になれる。 正月14日には、坂東八ヵ国の掾(じょう。国の三等官だが上総・上野・常陸は実質次官)が任じられ、判明されているのは以下の通りである。上総掾 平公雅(将門の従兄弟)下総権少掾 平公連(将門の...