◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

第1回 将門の闘いの始まり

 「平将門の乱」を簡単に説明すると、下総(茨城県・千葉県)・常陸(茨城県)方面に勢力を張っていた、桓武平氏の平将門の一族が、一族内でいざこざを起こし、それが発展して天慶2年(939)に将門は国家に対して反逆を起こすことになり、結果的に将門は坂東(関東地方)を制覇して「新皇」と称して日本からの独立宣言を行い、日本国家からの褒賞に期待を寄せて出陣した下野(栃木県)の有力者・藤原秀郷や将門の従兄弟で父を将門によって殺されている平貞盛(平清盛の先祖)らが将門を討ち滅ぼして解決するという古代史上最大規模の反乱である。

 

 「平将門の乱」の正確な時期については、将門が国家に対して反逆をおこした天慶2年(939)11月から将門が討たれた翌年の2月までを指し、その前段階の将門一族の「私闘」の段階を「乱」には含めないという考えに私は賛成するが(そういう「私闘」は坂東では日常茶飯事だったため)、ことの経緯を説明するために、将門一族の「私闘」から取り上げてみようと思う。

 

 まず、将門の系図を以下に示す。

 

桓武天皇―――葛原親王―+―高棟王
            |
            +―高見王―+
                  |
+―――――――――――――――――+

+―高望王―+―国香―――貞盛―――維衡―――正度―――正衡―+
      |          (伊勢平氏)        |
      +―良兼―+―公雅                |
      |    |         +―――――――――+
      |    +―公連      |
      |    |         +―正盛―――忠盛―――清盛
      |    +―女
      |      |
      +―良将―――将門
      |(良持)

      |
      +―良正
      |
      +―良文
       (関東<坂東>八平氏の祖)

 

 将門らは桓武天皇の子孫とされているので、通常「桓武平氏」という呼び名でくくられる。

 

 当時、天皇家の子供の中には、臣籍降下といって、天皇家の財政上の問題もあって(要するに口減らしのため)家臣にされてしまう者がいたのだが、高望王もその一人で、平朝臣の氏姓を授けられ臣籍に降ったとされている。

 

 なお、高見王と高望王の父子は同時代の史料には現れず、南北朝時代から室町時代にかけて作られた『尊卑分脉』という系図集や、それ以外の信憑性の高くない各種系図に記載されている人物に過ぎない。

 

 つまり、将門ら高見王・高望王の流れは桓武天皇の子孫とされているわけだが、史料的裏付けは取れないということである(ちなみに、高見王の兄弟の高棟王は、正史である『日本三代実録』に現れ、子孫も都で活動し、清盛の妻の時子もその子孫である)。

 

 将門の本当の出自については今後も探究する必要があるが、ここでは高見王・高望王の流れの将門らは桓武天皇の子孫という「公式の見解」に従うことにして、これ以上は探りを入れないことにする。

 

 さて、将門と一族との争いの発端は、将門の反逆の8年前の延長9年(931)に、将門が伯父の良兼と「女論」によって不和になったことから始まる。

 

 その「女論」についての詳しいことは史料がなくて分かっていないのだが、将門は良兼の娘を妻としていたので、その妻が関係していると考えられ、一部の研究者は良兼が娘と将門の結婚を反対したのが不和の理由だとしている。

 

 単純に「不和」といっても口げんか程度で済むものではなく、将門とその伯父であり義父である良兼の不和はお互い兵を率いて争う合戦に発展した。

 

 当時の地方社会のリーダーたちは、「力こそが正義」だと思っており、屈辱を加えられた場合は、すぐに腕力を示すというのが普通だった。

 

 かくして、女性問題を発端として、将門は一族との争いを始めた。

 

 そしてこの争いはこの後、より一層深刻の度を増していき、最終的には関東一円を巻き込む「平将門の乱」へと発展することになる。

 

【参考資料】

  • 『尊卑分脉』
  • 『新編 日本古典文学全集 将門記 陸奥話記 保元物語 平治物語』 柳瀬喜代志・矢代和夫・松林靖明・信太周・犬井善壽/校注・訳
  • 『戦争の日本史4 平将門の乱』 川尻秋生/著

 

第1回

第2回 >>

将門の闘いの始まり

一族内で孤立する将門

スポンサードリンク



 

ご意見・ご感想は、稲用章

inayouアットマークa.email.ne.jp

までお願いします。