◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

第2回 一族内で孤立する将門

 前回述べた延長9年(931)の「女論事件」よりも前、将門やその従兄弟の貞盛は、ともに都に出て出世の道を模索していたが、将門はついに位階や官職を得ることがなく、おそらく父の死によってだと思われるが、故郷の下総に帰った。

 

 当時の中央の権力者は、延長8年(930)に朱雀天皇の摂政になった藤原忠平だったが、将門は少年の頃に忠平に名簿(みょうぶ)を差し出している。

 

 名簿とは名刺のようなもので、それを差し出すということは、臣下の礼を取るということだ。

 

 ということは、将門には中央とのコネがあったということになるが、なぜ将門は少しの位階に叙せられることもなかったのだろうか。

 

 そのわけは、将門に重大な弱点があったからだと思われる。

 

 その弱点とは、心身の健康状態ではあるまいか。

 

 現代でいう「躁うつ病」だったのかもしれない。

 

 「躁うつ病」であれば、厳しい勤務の場合は安定して業務の結果を出したり、毎日淡々とコンスタントに勤務をこなすことができない。

 

 将門は公務に携わったことは少しあったようで、『尊卑分脉』に「瀧口小二郎」と記載されていることから、瀧(滝)口の武士に任じられていたと考えられる。

 

 滝口の武士とは、清涼殿の滝口に詰めて禁中の宿直警固にあたる職だ。

 

 おそらく調子の良し悪しがはっきりしていた将門は、滝口の武士を務めた結果、実直さが必要な朝廷の服務に適さない人物だと評価され、それで官位に付けなかったのではないだろうか。

 

 もちろん滝口の武士も長く務まらなかったと思われる。

 

 これら将門の体調に関する話は推測に過ぎないが、ともかく理由は何であれ、将門は藤原忠平という有力なコネを持っていたにもかかわらず何の官位にも付けず、故郷に帰ってきたのは事実である。

 

 その後、延長9年(931)の「女論事件」を経て、将門は父良将の遺領問題に関して伯父の良兼としっくり行っていなかった。

 


桓武天皇―――葛原親王―+―高棟王
            |
            +―高見王―+
                  |
+―――――――――――――――――+

+―高望王―+―国香―――貞盛―――維衡―――正度―――正衡―+
      |          (伊勢平氏)        |
      +―良兼―+―公雅                |
      |    |         +―――――――――+
      |    +―公連      |
      |    |         +―正盛―――忠盛―――清盛
      |    +―女
      |      |
      +―良将―――将門

      |(良持)
      |
      +―良正
      |
      +―良文
       (関東<坂東>八平氏の祖)

 

 本来であれば良将の遺領問題に良将の兄の良兼が口を出すことではないと思うが、それがなされたということは、やはり将門に上述のような健康上の懸念があり、それを口実にして良兼が乗っ取りを画策したのではないかと思われる。

 

 そんな将門に、承平5年(935)、平真樹(たいらのまさき)という平姓を名乗ってはいるものの出自が不明な人物が、将門と利害が一致するということで、国香や源護(みなもとのまもる)らを討とうと話を持ちかける。

 

 源護は前常陸大掾(大掾<だいじょう>は通常三等官だが、常陸国の場合は次官)で、名前が一文字のことから嵯峨源氏か仁明源氏だと考えられるが、出自は不明だ。

 

 その護は、将門の父の兄弟の国香、良兼、良正を娘婿に持っていた。

 

 将門の一族の中で勢力を持っている伯叔父たちは皆、護を介しても一致団結していたのである。

 

 それに対して、将門は一族内で完全に孤立している。

 

 伯叔父たちは皆で結束して、将門排除を目論んでいたのである。

 

 そういう雰囲気を察していたのか、将門は真樹の提案に乗り、国香・護らと戦うことにした。

 

 結果は、将門軍の勝利で、国香や護の息子扶・隆・繁らは討死した。

 

 そして2月4日をもって、将門は敵方の支配下の住民たちの家をことごとく焼きうちにした。

 

 いつの時代でも合戦に放火はつきものだが、当時の合戦は、敵を倒した後にその土地を活用しようなどとは考えずに、完全に燃やしてしまうのが普通であった。

 

 さて、そのころ将門の従兄弟の貞盛(国香の子。清盛の先祖)は都で活躍しており、無位無官であった将門とは対照的に、左馬允(左馬寮の三等官)という武人らしい官職に付いていた。

 

 貞盛は父の戦死を聞いて、急ぎ帰郷する。

 

 そして、焼き尽くされた故郷を見て愕然とした。

 

 通常であればここで「父の仇の将門を生かしておけるか!」と、報復に出そうだが、貞盛は違っていた。

 

 「将門は本来の敵ではない。父が死んだのは縁族である源護一族の縁に引っ張られただけだ。自分は今は官職についている。やはり都へ戻って中央で頑張ろう。将門とは互いに協力し、天下にその名声を馳せるようにしたい」と思い、それらの気持ちを認めて将門に手紙を送った。

 

 これにより、将門と貞盛は恨みを越えて和解に進むことになる。

 

 しかし、彼らの仲を引き裂く人物が現れる。

 

 長兄の国香や義父の源護の子ら(つまり従兄弟)を殺された、将門の父の兄弟、良兼と良正だ。

 

 最初、良正が護と提携して将門と戦うが、良正らはそれに敗れ、良正は兄の良兼を引きずり込んだというわけだ。

 

 良兼は既述した通り将門の義父で、下総介(下総国の次官)の地位にあり上総に住んでいた。

 

 その良兼に対して、どういう意図があってか、貞盛が面会してしまう。

 

 そして案の定、味方に付くように説かれた。

 

 つい先ごろ、将門に対して和解の手紙を送っておきながら、優柔不断な貞盛は良兼の説得を断りきることができず、良兼・良正勢に味方することにし、彼らは一体となって将門軍に襲いかかった。

 

 合戦は承平6年(936)10月26日、下野国との国境で行われ、将門軍が機先を制して繰り出した歩兵軍の活躍で将門軍が勝利し、良兼らは下野国の国府に逃げ込んだ。

 

 将門は良兼らを追って下野国府を囲んだが、義父の良兼を殺すのを忍びないと思い、囲みの一角を解いて良兼らを逃がした。

 

 さて、北関東でこのような合戦が行われている一方で、反将門陣営は、別の手を打ってきていた。

 

 さきに将門にコテンパンにやられた源護が、将門や真樹を朝廷に訴えていたのだ。

 

 裁判を受けるため、将門は都へ上ることになった。

 

 そこで将門はどのような論難に出くわすのだろうか。

 

【参考資料】

  • 『新編 日本古典文学全集 将門記 陸奥話記 保元物語 平治物語』 柳瀬喜代志・矢代和夫・松林靖明・信太周・犬井善壽/校注・訳
  • 『戦争の日本史4 平将門の乱』 川尻秋生/著

 

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将門の闘いの始まり

一族内で孤立する将門

将門と貞盛との決定的な決裂

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