◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

第4回 将門と興世王との運命的な出会い

 当時、武蔵国足立郡(北は埼玉県鴻巣市から南は東京都足立区にかけて)の司に武蔵武芝(むさしのたけしば)という人がいた。

 

 武芝の家は代々足立郡を治めてきており、武芝も民に慕われる郡司かつ武蔵国の判官代だった。

 

 そこに新任の武蔵権守興世王(おきよおう。権守は国の長官の仮の官)と武蔵介源経基(みなもとのつねもと。介は国の次官)が着任した。

 

 経基は、源頼朝の先祖にあたる。

 

 清和天皇(あるいは陽成天皇)――○――源経基――満仲―+―頼光
                           |(摂津源氏)
                           |
                           +―頼親
                           |(大和源氏)
                           |
                           +―頼信――――+
                            (河内源氏) |
                                   |
 +―――――――――――――――――――――――――――――――――+
 |
 +―頼義―+―義家――――義親――為義―+―義朝―+―義平
      |(八幡太郎)        |    |
      |              +―義賢 +―頼朝
      +―義綱
      |(賀茂次郎)

      |
      +―義光
       (新羅三郎)

 

 着任した興世王と経基は、武蔵国の長官である武蔵守が着任する前に、管轄の地域である足立郡に立ち入ろうとした。

 

 そこで武芝とトラブルになる。

 

 正式の国守がくる前にその部下が入る例はないとして武芝は興世王と経基の入部を拒んだのだが、実際は膨大な贈り物や接待をしなければならないので、それを嫌がったものという説もある。

 

 この事件は、承平8年(938)2月のことなので、前回述べた、将門が貞盛と信濃で合戦をしていたころである。

 

 武芝は興世王と経基の権勢を避け野に隠れたが、興世王と経基は武芝の財産を差し押さえてしまう。

 

 それに対して、武芝は文章で抗議したが埒があかない。

 

 さて、信濃から帰陣後、武蔵でのこの紛争を伝え聞いた将門は「功を挙げるチャンス」とみて、武蔵での紛争の調停に乗り出した。

 

 彼らを和解できれば、今まで一族との私闘で得た罪や先日の信濃侵攻の罪を帳消しできるかもしれない。

 

 将門は手兵を率いて武蔵へ出向き、武芝と興世王と経基を招き、和解の宴を催した。

 

 ところが、初めは順調に行きそうに見えたこの和解の酒宴であったが、何の手違いか、武芝の後陣の軍勢が経基の営所を囲んでしまったのだ。

 

 いまだ兵(つわもの)の道に練れていなかった経基はそれに驚き、武芝にそそのかされた将門と興世王が自分を殺そうとしているのではないかと勘違いし、その場を逃れ出て、後に都に上り、事件から1年経った翌天慶2年(939)3月3日に「将門・興世王謀反」を朝廷に訴えてしまった。

 

 「謀反(むへん)」は、謀叛(むほん)などと並んで八虐の一つに数えられる大罪で、国家転覆を目論む罪だ。

 

 経基の訴えは臆病心から出たように思えるが、おそらく将門のことなので、酒宴の席で「俺が天下を取って見せる」などと、謀反の口実になりそうなことを大言壮語していたのだろう。

 

 その言葉尻を経基に掴まれたものと思われる。

 

 また、興世王は後日将門陣営に加わるが、このときの酒宴で将門と意気投合したと思われる。

 

 相性が合ったのだろう。

 

 ある意味、将門にとっては興世王との出会いがその後の運命を大きく踏み外すポイントになったと考えられるが、悪縁に出会ってしまうというのは自分にも悪縁を引き付ける要因があるものである。

 

 将門と興世王が仲良くなったのを見て、経基は不安になったのかもしれない。

 

 しかしそれにしても、上記が頼朝ら清和源氏の祖経基の歴史デビューだ。

 

 後々の「武家の棟梁」のイメージとはだいぶかけ離れている。

 

 さて、それに対して将門は、私君である藤原忠平に弁明書を送り、また5月2日には、常陸・下総・下野・武蔵・上野から国解(こくげ。国から中央へ送る正式文書)で自分は謀反をしていないということを釈明した。

 

 このように将門が疑惑の渦中にいる6月上旬、将門と数年越しに戦ってきた、伯父であり義父である良兼が死亡した。

 

 これで、下総周辺での将門らの桓武平氏の私闘も終焉するかに見えたが、将門を巡る騒乱は一族内の私闘から次のステップに進むことになる。

 

 やがて、武蔵国には新任国司の百済貞連(くだらのさだつら)が着任したが、興世王はそれと不仲となり、このあと興世王はかねてより仲良しになっていた将門のもとに行き、将門を本物の謀反人へといざなうことになる。

 

 ところで去年、都に上って将門の不法を訴えていた貞盛だったが、良兼死亡直後の6月中旬に坂東に下向してきた。

 

 しかし、将門の勢力に敵わず、陸奥守平維扶(たいらのこれすけ)と知人だったので、奥州に出て態勢を整えようとしたが、それにも失敗し、常陸のあたりに身をひそめることになった。

 

 さて、今回まで4回に渡って「平将門の乱」に至る経緯を述べてきたが、次回ではいよいよ将門が国家に反逆したことが認定されることになってしまう。

 

 「平将門の乱」の始まりである。

 

【参考資料】

  • 『新編 日本古典文学全集 将門記 陸奥話記 保元物語 平治物語』 柳瀬喜代志・矢代和夫・松林靖明・信太周・犬井善壽/校注・訳
  • 『戦争の日本史4 平将門の乱』 川尻秋生/著

 

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将門と貞盛との決定的な決裂

将門と興世王との運命的な出会い

平将門の乱の勃発

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