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第6回 平将門の乱とは何だったのかり

 天慶3年(940)正月11日、将門を討伐した者に恩賞を与える旨の太政官符(だいじょうかんぷ)が、東海道・東山道に対して下された。

 

 もし将門を殺せば、五位以上の位階に叙せられる約束だ。

 

 つまり、一躍貴族になれる。

 

 正月14日には、坂東八ヵ国の掾(じょう。国の三等官だが上総・上野・常陸は実質次官)が任じられ、判明されているのは以下の通りである。

 

  • 上総掾 平公雅(将門の従兄弟)
  • 下総権少掾 平公連(将門の従兄弟)
  • 常陸掾 平貞盛(将門の従兄弟)
  • 下野掾 藤原秀郷
  • 相模掾? 橘遠保

 

 上記の人びとは押領使(おうりょうし)も兼任した。

 

 押領使は国ごとに置かれ、追補官符(ついぶかんぷ)を受けて犯人を追捕する役職のことだ。

 

 上記のリストの中に、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)が出てきた。

 

 このあと秀郷は貞盛とともに「平将門の乱」を鎮定することになるが、秀郷はどんな人物だったのだろうか。

 

藤原鎌足―――不比等―――房前―――魚名―+―末茂――(九代略)――家成
            (藤原北家祖)  |
                     |
+――――――――――――――――――――+

+―――――――藤成
        |伊勢守
        |下野大介
        |
        +―――――豊沢
        |     |下野少掾
  鳥取業俊──女     |
   下野史生       +―――――村雄
              |     │下野大掾
              |     │
        鳥取豊俊――女     +―――――秀郷―+―千晴

         下野史生       │        |
                    │        +―千常
              鹿島――――女
               下野掾

 

 秀郷は、藤原北家の祖房前の五男魚名の末裔で、秀郷の曽祖父藤成は下野国の大介職に任じられ、その子豊沢は同じく下野の少掾で押領使に補され、二代続けて下野の有力者鳥取氏の女を妻としている。

 

 豊沢の子が大掾村雄で、その子が秀郷だ。

 

 秀郷は将門追捕に出陣する前に、実は前科があった。

 

 それは延喜16年(916)のことだが、何かしらの罪を得て配流の決定が下されていたのだ。

 

 秀郷の罪は不明だが、下野で勢力を広げ、反国家的な動きを見せていたのだろう。

 

 その頃の関東地方西部には「僦馬の党(しゅうばのとう)」という集団が跳梁していた。

 

 「僦馬の党」というのは表の顔は運送業者だが、裏の顔は盗賊という者どもで、中央も取り締まりに苦慮していおり、そういった怪しい人びとと秀郷が結託していた可能性もある。

 

 結局、秀郷は逮捕されず、延長7年(929)にも再度犯行に及んでいる。

 

 そのときは近隣諸国から兵士が動員されるという有様であったので、下野にかなりの争乱が起きたものと思われる。

 

 場合によっては、「平将門の乱」よりも前に、「藤原秀郷の乱」が起きた可能性もあったわけだ。

 

 しかし、このときも結局秀郷は逮捕されず、そのままなし崩し的に「平将門の乱」へと時代は流れていき、そこで将門を討った秀郷は前科を帳消しにされて一気に出世する。

 

 さて、天慶3年(940)正月18日には政府は藤原忠文を征東大将軍に任じ、5名任じられた副将軍の一人に源経基が見える。

 

 しかし、征東大将軍の坂東進出を待たずして、ことは決着してしまった。

 

 正月中旬、将門は、仇敵である貞盛や藤原為憲の捜索を命じ、貞盛の妻や源扶の妻を捕えることに成功した。

 

 将門は貞盛妻に対して、密かに歌を問いかけ貞盛の居場所を聞き出そうとしたが、貞盛妻は口を割らない。

 

 やがて貞盛妻らは本籍の地へと返された。

 

 その直後、秀郷・貞盛らが4000人の兵力で将門に襲いかかった。

 

 将門は農繁期のため兵のほとんどを村に返しており、手勢は1000人足らずしかいなかった。

 

 将門はたまらず敗走する。

 

 そして2月14日、将門のもとにはフル稼働をすれば集まるはずの8000の兵士は集まらず、400人ほどが集まったにすぎなかった。

 

 将門は猿島郡の北山を背にして陣を張り、秀郷・貞盛を待ち受ける。

 

 最期の戦いは午後3時ごろ始まった。

 

 最初、風向きは将門勢に有利だったが、そのうち風向きが変わり、将門勢は劣勢に立たされ、その風の中から飛んできた一本の矢が将門に突き刺さった。

 

 将門の最期だった。

 

 将門の首は、秀郷が切り取った(なお、このとき逃れた興世王は翌3月平公雅によって殺害され、またこのあとの論功行賞では、秀郷は従四位下、貞盛は従五位上に叙せられる)。

 

 さてこのようにして、桓武平氏の無位無官の男・平将門が坂東を制覇した「平将門の乱」は終焉を迎えたのであった。

 

 将門は結局、政府が派遣した大軍に負けたのではなく、下野の国軍を率いた、自分とほとんど同じような境遇の武将である藤原秀郷や、従兄弟である平貞盛に敗れたことになる。

 

 将門は自らの腕力を誇る癖があり、たしかにケンカは強いのだが、戦略レベルになるとまったく不得手だった。

 

 そしてその将門を裏で操った興世王や藤原玄明らも、戦略を練るのを怠り、計画はあまりにも杜撰だった。

 

 将門の挙兵は、現代の一部の関東住民からは、中央の圧政に苦しむ関東の農民たちを解放する戦いだったと言われているが、果たしてそういう現代的な農民解放闘争に結びつけて良いものだろうか。

 

 「平将門の乱」の真相は、常に自らの武力を誇る心と、国家の法律を順法しない性癖をもっていた将門が、その性格ゆえについに一線を越えてしまい、同じ不法者たち(興世王や藤原玄明など)に担ぎあげられ、ヤケッパチになって無計画に突き進んで頓挫した、そのような事件であったように思える。

 

 しかしそうは言っても、死後1000年以上経った現代にまで残る将門信仰を考えると、将門をそのようなただの反乱分子としてだけ考えることは済まされないと思う。

 

 やはり関東の住民に恐れられつつ慕われる何かの要因があったはずである。

 

 1000年以上も後の人びとに影響を遺すほど、当時の一般住民にとっても「平将門の乱」は、とてつもなくセンセーショナルな事件であったのである。

 

 政府の圧政に苦しんでいた一般住民にとって、将門自身は「農民解放」を意図していなかったとしても、彼らは将門の即位に一筋の光明を見出したのかもしれない。

 

 そしてごく短期間ではあったが、記録にも残っていない将門の善政があったのかもしれない。

 

 私は将門の義侠心に溢れる純粋な心根を愛する者のうちの一人である。

 

【参考資料】

  • 『尊卑分脉』
  • 『新編 日本古典文学全集 将門記 陸奥話記 保元物語 平治物語』 柳瀬喜代志・矢代和夫・松林靖明・信太周・犬井善壽/校注・訳
  • 『戦争の日本史4 平将門の乱』 川尻秋生/著
  • 『伝説の将軍 藤原秀郷』 野口実/著

 

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平将門の乱の勃発

平将門の乱とは何だったのか

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