◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

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九戸政実記事一覧

 私が九戸政実の名前を初めて知ったのは、高校生の時にプレイした、ゲーム「信長の野望」においてである。「信長の野望」はシリーズ化されており、その中の何作目だったかは忘れたが、九戸政実は比較的合戦に強い武将として登場していた。 しかし「信長の野望」の中で九戸政実は、松永久秀らと同じく、合戦に連れていくと必ず敵に寝返る武将として設定されていた。 「嫌な奴だな」 それが九戸政実に対する私の最初の印象だった...

 そもそも九戸氏の「政実」という人物は、実は当時の古文書には一切現れない。 九戸氏が九戸城に拠って豊臣勢と戦ったのは確実に史実だが、そのときの当主が「政実」という名前であった証拠はないのである。 唯一「政実」の名が現れる同時代史料は、九戸神社に伝わる建立時の棟札のみである。『九戸村史』によると、その棟札には、天文7年(1538)の日付で「大旦那源政実」と記されている。 江戸時代に書かれた『祐清私記...

 ところで、九戸家というのはそもそも南部一族なのだろうか。 一般に多く流布している家系図によると、九戸氏の先祖は南部家初代光行の五男行連であるといわれている。しかし私は後述する通りこれは誤りと考えており、そういった家系図は、江戸時代中期以降に南部家によって作られた架空の家系図がもとになっていると考えられる。 南部藩に伝わる最古の系図とされる『寛永系図』が編纂された時点(寛永18年<1641>)では...

 天正19年(1591)に糠部で争乱が発生し、九戸城が豊臣政権の奥州再仕置軍によって攻められ落城したのは、同時史料でも書かれているので事実だ(『伊達家文書』天正19年比定8月15日付け「簗田詮泰書状」によると「九戸政実の乱」は当時は「九戸一揆」と呼ばれていた)。 しかし政実が決起した原因については既述したとおり、江戸時代の記録(勝利者である南部家の書いた記録)にしか書かれていないので、それを信じる...