◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

第2回 「政実」とは誰か?

 そもそも九戸氏の「政実」という人物は、実は当時の古文書には一切現れない。

 

 九戸氏が九戸城に拠って豊臣勢と戦ったのは確実に史実だが、そのときの当主が「政実」という名前であった証拠はないのである。

 

 唯一「政実」の名が現れる同時代史料は、九戸神社に伝わる建立時の棟札のみである。『九戸村史』によると、その棟札には、天文7年(1538)の日付で「大旦那源政実」と記されている。

 

 江戸時代に書かれた『祐清私記』によると、政実は56歳で亡くなったと書かれており(根拠は不明)、もしそうだとすると逆算して天文5年(1536)の生まれとなるが、実名は元服の時に付けられるので、3歳のときに「政実」という実名を名乗っているのはあり得ない。

 

 そのため私は、棟札が作られた時はすでに政実は元服していたと考え、天文5年より一回り古い大永4年(1524)の生まれと想定し、棟札製作のときは元服直後の15歳で、没年は68歳であったと想定した。

 

 棟札の政実は、もしかすると「九戸政実の乱」の政実と同名の父(系図上の父である信仲も同時代史料には現れない)か祖父ではないかと考えられなくもないが、私は棟札の政実は、やはり「九戸政実の乱」の政実であって、したがって政実は『天を衝く』に描かれているよりももっと老けた人物で、「九戸政実の乱」の際には、すでに老人であったと考えている。

 

 もし、「九戸政実の乱」の際に政実が老人であったとすると、すでに子供が跡を継いでいてもおかしくないが、政実の子供が跡を継いだという言い伝えは残っていない。それに「九戸政実の乱」という名前の通り、主役はあくまでも政実であり、政実は老齢であってもまだ家督を子に継がせていなかったのであろう。

 

 『青森県史 資料編 中世2』所収『国文学研究資料館所蔵津軽家文書』によると、永禄10年(1567)、政実が一戸大和守宗綱を攻めた時、宗綱の二男勝五郎(11歳)が、九戸の二男弾正を射取ったとある。

 

 九戸神社の棟札からの想定で、大永4年(1524)の生まれと仮定すれば、永禄10年に二男が既に成人して活躍していたのは年代的にちょうど良い。『祐清私記』がいう、天文5年(1536)生まれでは無理がある。

 

 二男がいたということは長男もいたということだが、その伝えは残っていない。ただ、天正19年(1591)の時点で、市左衛門という子がいたことが知られており、『奥羽・津軽一族』によれば、市左衛門は津軽に逃れ、九戸家と裏で結んでいた可能性の高い津軽為信が保護を加え、御馬廻役知行400石を与えられて幕末まで存続している。

 

 また、『聞老遺事』によると、政実には九戸落城時に3歳ばかりの末子がいて、四戸氏の者が江刺黒石の正法寺に預け、成長ののち江戸に上り3000石をもらい堀野三右衛門と号し、元和年中(1615〜24)陸奥国の巡見使として三迫にきて九戸神社に参詣したという。九戸城の北側に現在でも堀野という地名が残っており、また館跡もあり、政実の家臣に堀野彦兵衛や堀野刑部という人物の名も知られているので、政実は堀野氏の娘を後添えとしたか側室としたかして、子をもうけたのだろう。

 

 したがって、九戸城の戦いの際には、政実の子の幾人かはすでに死亡し、まだ市左衛門や末子も幼かったので、政実は彼らに家督を相続することはなかったと考えられるのである。

 

 しかし老齢の政実は当主の座にいたものの、実質的に九戸家を統率していたと考えられる人物がいる。政実とは年が離れた弟の実親だ。

 

 実親は通説では南部家当主だった故晴政の次女の婿であり、南部信直と南部家の当主争いをした人物とされている。私は別のところでも述べているとおり、信直が晴政の長女の婿であった話を否定しているが、そうだとすると実親も晴政の婿ではなかったかもしれない。

 

 しかしもし実親が晴政の婿であったとすると、信直が内心で糠部の統一を願っていたのと同様に、政実も実質南部と九戸に分裂している糠部郡の郡主の地位については、まず南部氏側が領有する郡半分を実親によって継がせた後、その実親を自分の幼い子の後見人として、いずれはその幼い子を九戸家の当主とし、同時に糠部郡全体の棟梁とすることを目論んでいたのではないかと思っている。

 

 だた晴政(あるいは晴継)没後、その目論見は崩れ、それから「九戸政実の乱」にいたるまでの間、実親が後見人として実質的に九戸家を統轄していたと考えている。

 

 『祐清私記』には実親のことを「九戸か名跡」と記しているので、実親の権力は相当あったかも知れず、もしかすると実親自体が、政実の幼子の後見人の地位に甘んじることはせず、自ら九戸家の当主となる野望を持っていたのかもしれない。

 

 九戸落城時、政実が降伏したのに対し実親が徹底抗戦したのも、背景には政実と実親との確執があった可能性がある。

 

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九戸氏は本当に南部一族か?

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