◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

第3回 九戸氏は本当に南部一族か?

 ところで、九戸家というのはそもそも南部一族なのだろうか。

 

 一般に多く流布している家系図によると、九戸氏の先祖は南部家初代光行の五男行連であるといわれている。しかし私は後述する通りこれは誤りと考えており、そういった家系図は、江戸時代中期以降に南部家によって作られた架空の家系図がもとになっていると考えられる。

 

 南部藩に伝わる最古の系図とされる『寛永系図』が編纂された時点(寛永18年<1641>)では、系図上に行連の名はない。したがって、行連の名を生みだし、九戸家を南部家の分家として公式に認定してしまうのは、それよりも後のことである。

 

 九戸家が南部家の分家であるという系図を南部氏が捏造した理由は、主な家臣をみな南部氏と同祖にし、家中に一体感を出して結束を固め、忠誠心を高めたり、倫理的に逆らえない状況を作ったりするのが目的だ。儒教で国を治めていた江戸時代においては、家臣を支配するための非常に有効な手段である。九戸行連が系図上に初登場した後の文政元年(1818)には、政実の弟康実の系統の中野家は南部を称することが許されている。

 

 なお、永禄6年(1563)に書かれた室町幕府の『諸役人附光源院殿御代当参衆並足軽以下覚書』という史料(幕府家臣の一覧)に、九戸氏は南部氏と別個に書かれているので、室町幕府は九戸と南部を別の勢力として認めていたという意見があるが、例えば北条氏は氏康・氏政父子が並んで書かれているので、それをもって九戸と南部が別個の勢力であったという証拠にはならない。

 

 しかし、政実の地元の九戸では、政実は小笠原氏の子孫であるという説が根強く残っており、それが真実だとすると、やはり九戸氏は南部氏の一族ではない。ただし、南部氏の祖光行と小笠原氏の祖長清は兄弟である(長清が兄)。

 

 九戸氏は果たして本当は小笠原氏なのだろうか。

 

 江戸時代に書かれた『九戸軍談記』という書物で、九戸城の戦いの前哨戦である姉帯城の戦いの際に、政実同族の姉帯兼信が戦場で名乗りをあげたときの台詞は以下の通りだ。

 

 「ゆふき惣大将小笠原美濃守正安が子孫左近将監正実が一類姉帯大学兼興が舎弟五郎兼信と申す者なり!」

 

 「ゆふき」というのは結城のことで、小笠原美濃守正安とは、小笠原政康のことである。

 

 何故「結城惣大将」なのかというと、この意味は、元弘3年(正慶2年・1333)12月18日に九戸は結城親朝に与えられたので、九戸氏はその結城氏の子孫だと考えることもできるが、「惣大将」と言われているので、私は「永享12年(1440)の結城合戦に信濃国守護(惣大将格)として出陣した小笠原政康」という意味ではないかと考えている。

 

 実際の全体の惣大将は上杉清方だったが、信濃一国を率いたという点で誇張して「結城惣大将」と言ったのだろう。

 

 『九戸軍談記』は軍記物ではあるが、上記の台詞から、江戸時代になっても九戸家が南部家の子孫ではなく、小笠原家の子孫であることが、民間に知識として残っていたことを表わしていると考えられる。政実が小笠原氏の子孫だというのは信憑性が高いのではないだろうか。小笠原家では嘉吉2年(1442)に政康が死ぬと、その跡目を巡って内紛が起きているので、このとき政康の子の誰か(庶子であり系図に残っていない人物)が九戸に移ってきて、それが政実に繋がるのではないかと私は考えている。

 

 既述した通り、もとをたどると南部家の祖光行と小笠原家の祖長清は兄弟だ。平安時代末から鎌倉時代初期の甲斐国(山梨県)の武将加賀美(加々美)遠光の子らである。もし九戸家が小笠原家の子孫だとすると、南部・小笠原ら兄弟の子孫どうしが、それぞれ糠部地方にやってきて、永い期間に渡り勢力争いを演じていて、その総決算が「九戸政実の乱」ということになる。

 

 『南部藩参考諸家系図』によると、九戸氏が本拠地の九戸郡(九戸村)から現在の二戸市の九戸城(別名白鳥城)に移ったのは、政実の4代前の光政の時と記されているが、現在残っている九戸家の系図も正しいかどうかは分からず、確証はない。

 

 簗部善次郎氏は著書『二戸郡九戸郡 古城館趾考』の中で、一戸実相寺(当時は金田一にあった)の古文書をもとに、九戸氏は明応年間(1492〜1501)には金田一を領しており、実相寺の檀家の領域により、九戸城の場所を含め現在の二戸市の一部に九戸氏が進出していたことが分かると述べている。そして享禄3年(1530)の頃にはすでに九戸城を築城していたと推測している。

 

 そうすると、九戸城へ移ったのは政実の父信仲(という人物が実在とすれば)の時かもしれない。

 

 九戸城は、二戸市福岡の馬淵川右岸にあり、その規模は南部信直の居城であった三戸城をしのいでいる。この遺跡ひとつを取って見ても、往時の九戸氏が強大な勢力を保持していたことが理解できる。

 

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「政実」とは誰か?

九戸氏は本当に南部一族か?

いったい「九戸政実の乱」とは何だったのか?

 

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