◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

第4回 いったい「九戸政実の乱」とは何だったのか?

 天正19年(1591)に糠部で争乱が発生し、九戸城が豊臣政権の奥州再仕置軍によって攻められ落城したのは、同時史料でも書かれているので事実だ(『伊達家文書』天正19年比定8月15日付け「簗田詮泰書状」によると「九戸政実の乱」は当時は「九戸一揆」と呼ばれていた)。

 

 しかし政実が決起した原因については既述したとおり、江戸時代の記録(勝利者である南部家の書いた記録)にしか書かれていないので、それを信じるとネット上に普通に散見される九戸政実の乱の説明のようになってしまう。

 

 私は「九戸政実の乱」の原因は以下の通りだと思っている。

 

 「九戸政実の乱」が発生するに至った理由の一番としては、政実が豊臣秀吉の小田原北条氏攻撃の際の参陣命令に従わなかったことが挙げられる。

 

 天正18年(1590)の小田原城攻めに際して、小田原に参陣した奥羽の諸氏はみな所領の安堵を受けている。反対に小田原に当主本人が行かなかった葛西・大崎・和賀・稗貫は改易(所領没収)となり、八戸・阿曽沼は南部家の附庸(家臣)とされた。

 

 政実も小田原に行っていないのである。

 

 なぜ葛西・大崎・和賀・稗貫・八戸・阿曽沼、そして九戸が小田原に行かなかったかというと、八戸はまた別の事情があるのだが、彼らはみな伊達領より北に位置しているので、伊達政宗が情報を遮断していたのか、もしくは情報を故意に操作して北奥の諸氏に伝えていたことが理由と考えて間違いないだろう(もちろんそこには政宗の陰謀が絡んでいるのは間違いないと私は思っているが、それについてはまだ話ができるほどに研究が進んでいない)。

 

 一方で、南部信直は小田原に行き、7月5日の北条氏降伏、ついで13日の小田原城接収の後も秀吉の後を追いかけ、ついに27日に宇都宮において秀吉から七郡の所領安堵を含む朱印状を手に入れた(『盛岡南部家文書』天正18年7月27日付け「豊臣秀吉朱印状」)。

 

 その七郡というのは、『青森県史 資料編 中世1』では、糠部・閉伊・鹿角・久慈・岩手・志和・遠野としており、九戸政実の所領である後世の九戸郡と二戸郡は糠部郡に含まれているので、これによって政実の所領は国家権力によって信直のものになることが決まったのだ。

 

 政実はその決定から数日後、それを知ったはずである。

 

 政実は激怒したに違いない。

 

 今まで先祖代々受け継いできた自分の領地が、突然頭ごなしに南部信直の領地になってしまったという不条理さに対する怒りは言葉に表すことができなかったであろう。同様に南部家の附庸とされた八戸政栄はその屈辱に耐えて南部家臣となって生きる道を選んだが、政実は違った。何としても我慢ならなかったのだ。

 

 九戸氏が南部一族でないとしたらその怒りは当然であり、仮に南部の分家だとしても、分家してから400年近くも経っていて、現実的には南部と九戸は別勢力である。いずれにしても独立勢力の地位から紙切れ一枚で人臣に落とされてしまったのだ。

 

 信直と秀吉の間でどのような話がされたのかは分からない。

 

 しかし糠部の勢力を二分していた信直と政実の暗闘は、政治・外交力に勝った信直の勝利と決まったのである。

 

 そう考えると、政実が小田原に行かなかったのが本当に悔やまれる。小田原に行っていれば九戸・二戸地域は江戸時代に南部藩とは違う藩になっていたかも知れない。実際近世初頭に広大な糠部郡は分割されたので、九戸・二戸地域が分割されて別の藩になった可能性はあるのだ。信直は小田原攻めの4年も前から豊臣政権に近づいていたので、政実もそうするべきだった。

 

 政実が小田原に行かなかった(というよりそもそも豊臣政権に近づかなかった)のは、伊達政宗の陰謀のせいだと私は考えている。

 

 政宗が政実に物理的な軍事支援をしていたという伝承は残っているが、しかしまだその陰謀の決定的な証拠は掴んでいないので、これ以上お話することはできない。

 

 ただ、想像で一言だけ言わせていただくと、政宗自らは南奥(江刺郡以南)を治め、北条氏は関東を治め、そして政実は北奥(和賀郡以北)を治め、大浦(津軽)為信は津軽地方を治め、それらが同盟して豊臣政権と戦うという構想を政宗は心に抱いていたと考えている。実際、伊達家と北条家は同盟を結んでいたし、伊達家は九戸家に対して軍事援助を行い、九戸家と大浦家も友好関係にあった。

 

 さて、政実が決起した日にちについては史料で確認することはできないが、江戸時代に書かれた記録を総合すると、どうやら天正19年3月13日が政実が大規模な蜂起を行った日のようだ。

 

 通説では政実と信直の確執は、南部家相続の時からとされているが、不思議なことに信直の家督相続以降、先の七郡安堵の朱印状発行まで、信直と政実が直接戦ったという伝承は残っていない。その間、約20年だ(研究者によっては約10年とする)。

 

 したがって、私は政実の決起と南部家の相続の問題は無関係であったと考えている。つまり、政実は南部家相続で弟の実親が南部家督を継げなかったことを憎んで信直と敵対関係になったのではなく、七郡安堵によって信直と政実は初めて敵対関係になったと考えているのだ。もちろん同じ糠部郡内の隣同士なわけだから、それまでも暗闘や政治的な駆け引きがあったことは間違いないと思うが、表だって敵対関係になったのは七郡安堵の後である。

 

 もし九戸家が南部家の族臣だったとすると、そもそも二戸や九戸を含めた糠部の所領は信直のものなので、七郡安堵を理由に政実が決起する必要はない。南部家の家督相続から20年(あるいは10年)も経ってから、それを理由に南部家に謀反を起こす意味が分からない。むしろ主である南部家が豊臣政権から所領を安堵されて良かったと思うはずだ。自分たちの身の安全も確保されたわけであるから。そう考えると、やはり九戸家は南部家の一族ではない独立勢力であったいうのが事実であると考えられる。

 

 政実決起から半年後、『浅野家文書』天正19年9月14日付け「浅野長吉書状写」によると、九戸城は9月2日から上方軍によって攻められ、政実以下は降伏した。

 

 その後、政実以下は首をはねられ、「九戸政実の乱」は収束した。

 

 政実は奥州が豊臣政権の版図に飲み込まれようとする際に、伊達政宗の陰謀に巻き込まれ、また糠部郡統一の野望を抱いた南部信直との政治的駆け引きにも敗れ、中世の国人領主から近世の大名へ脱皮することができなかった、地方の有力な武士の棟梁なのである。

 

 既述した通り、奥州には葛西・大崎・和賀・稗貫・八戸・阿曽沼といった氏族が豊臣政権に逆らって滅亡したり、南部家の家臣の地位に成り下がったりしている。

 

 彼らはどのような無念の涙を飲んだのか。

 

 当主以下、家臣の末端に至る武士たちとその家族や領民たち。

 

 彼らの無念を晴らすためにも、私は今後も筆を執り続る。

 

*** 東北の古代・中世史講座のご案内 ***


 クラブツーリズム新宿本社にて、2017年の1年間、東北地方の古代史と中世史の講座を開催します。


 ※「旅の文化カレッジ」2016年12月号掲載



 こちらがそれです!



 1年間かけて東北の古代・中世史を戦国時代の終焉からどんどん遡ってお話しするという内容です。


 第1回は「九戸政実の乱」について取り上げますよ!


 興味のある方は是非おいでください!


クラブツーリズムの詳細ページはこちら

 

<< 第3回

第4回

九戸氏は本当に南部一族か?

いったい「九戸政実の乱」とは何だったのか?

スポンサードリンク



 

ご意見・ご感想は、稲用章

inayouアットマークa.email.ne.jp

までお願いします。