◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

本文中には「北条得宗家」という言葉がよく出てきますが、北条得宗家とはいったい何でしょうか。

 

鎌倉幕府は、源氏が征夷大将軍だったのは3代目までで、4代目以降は藤原氏と皇族出身の人が将軍に就任しています。

 

形の上からは、将軍が最高権力者のはずですが、実際は初代将軍の頼朝時代を除いては、頼朝の妻政子の実家である北条家が実権を握っていました。

 

その北条氏の嫡流のことを北条得宗家といいます。

 

頼朝の義父(政子の父)時政から、義時、泰時、時氏、経時、時頼、時宗、貞時、高時までの9代を数えることができます。

 

得宗家は得宗領といわれる所領を持ち、御内人(みうちびと)と呼ばれる直属の家臣を所領の代官にしていました。

 

南北朝時代以降に、南部氏が活躍することになる南部地方(青森県東部と岩手県北部)も得宗領があり、南部氏は得宗家の御内人と化し、代官をやっていくうちにその所領のいくつかを押領したのではないかというのが私の仮説で、それが南部氏のそもそもの奥州との関係の始まりだと考えています。

 

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北の南朝 −南部師行・政長兄弟−記事一覧

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 弟が窮しているとの報告を受けた足利尊氏は、ついに意を決し、小山一族を率いて12月8日に鎌倉を出陣し、新田義貞勢に襲い掛かった。 尊氏はいざ合戦場に出ると、もの凄く勇猛な武者となる。その尊氏の軍勢の勢いに押された義貞勢は箱根竹の下(静岡県小山町竹之下)の合戦で打ち負け、算を乱して退却した。 尊氏勢は義貞勢を追撃し、佐野山(三島市)、伊豆国府(同)、三ヶ日と続けて勝ち、義貞勢は天竜川を越えて退こうと...

 その頃、津軽でも戦闘が行われていた。建武3年(1336)正月7日には、師行は政長らを率いて津軽藤崎・平内城に出張り、成田六郎左衛門尉とともに曽我余一左衛門尉貞光や安藤五郎次郎家季らと戦った。これは師行が合戦に出たことを示す珍しい例でもある。今までの津軽での戦いは、建武政権と旧幕府軍との戦いであったが、今回の南部氏らと曽我・安藤氏との戦いは、建武政権と尊氏との戦いとなっている。曽我・安藤の裏では、...

 九州で力を蓄えていた尊氏は、九州の諸将を従え4月3日に大宰府をあとにして上洛の途につき、5月5日には、備後の鞆(広島県福山市鞆町)に着いた。 尊氏が東へ進んでいた4月16日には、斯波家長に属する相馬胤康らが、奥州に下向途中の北畠顕家勢と相模国片瀬河(神奈川県藤沢市)で戦い、胤康は討ち死にしている。相馬一族もすべてが家長に味方したわけではなく、胤平は建武政権側に付き、胤平は26日に左衛門尉に推挙さ...

 陸奥に再下向した顕家は附近の北朝勢力を掃討したが、12月11日には北関東の南朝側の拠点で、楠木一族が拠っていた瓜連城(茨城県那珂市瓜連)が佐竹氏に攻められ落城した。これにより常陸・下野方面の南朝側勢力は分散してしまった。 翌延元2年(建武4・1337)正月8日には顕家は、多賀国府の維持が困難であることを悟り、多賀城を捨て、伊達郡の霊山(福島県伊達市・相馬市)に本拠を移した。霊山は守るには良い場所...

 延元3年(建武5・1338)閏7月2日、越前国藤島の灯明寺(福井県福井市)において、新田義貞は斯波高経と戦い討ち死にしてしまい、顕家・義貞と相次いで柱石を失った南朝は、急遽次の戦略を立てなければならなくなった。 8月11日には、尊氏は積年の夢であった征夷大将軍に任じられた。官位も上がり、今や正二位である。弟の直義も従四位上に叙され左兵衛督に補された。 後醍醐は秋ごろ、結城宗広の献策により伊勢の大...

 鎌倉に入った高師冬は、積極的に活動して、小田城に籠る関東の南朝の中心である北畠親房を狙った。師冬は上杉憲顕とともに、この年関東執事となり、関東管領である尊氏の嫡子義詮を助ける。 翌延元5年(暦応3年・1340)2月には「中奥」(奥州中部)で合戦があり、河村四郎以下が南朝側についた。この河村四郎は、名取郡の河村氏と考えられる。 6月25日には、足利直義から政長宛に再度降伏勧告状が認められた(『遠野...

 『白河文書』の興国元年(1340)と比定される12月25日付けの「宮内少輔清顕書状」によると、懸案になっていた河村六郎と葛西一族らが南朝側に寝返った。葛西氏はもともと南朝側のはずだが、一族内で当初北朝側についた者もあり、それが南朝側に回ったのだろう。また、「吉野殿」が無事であると記されているが、『史料読解 南北朝史』では、吉野殿を顕家の遺児顕成ではないかと推測している。 翌興国2年(暦応4年・1...

 既述した通り、顕信の北奥登場により、南朝側勢力は一気に活気付き、政長は糠部を出て和賀郡に迫る勢いを見せたが、鎌倉から北上し常陸に入った高師冬軍も負けていない。興国2年(1341)正月には、瓜連城(茨城県那珂市瓜連)のあたりで蠢いているので、南奥の南朝側の拠点小田城を北側から攻める作戦に出たようだ。さらに、高師直の軍勢がやってくるという情報が流れ、それに対して顕信の父親房は2月18日に結城親朝に対...

 結城親朝が北朝についたことは北奥にも影響を与えていたようで、和賀宗家の長義も鬼柳清義が討ち死にした跡の和賀郡内新田郷(北上市有田町)の半分を勲功の賞として、北朝から与えられている(『鬼柳文書』の康永2年(興国4年・1343)8月23日付け「石塔義房宛行状」)。しかし、和賀一族がすべて北朝側に寝返ったわけではなく、須々孫氏は依然として南朝側であるし、のちに和賀氏と合体することになる北上川河東の多田...

 その後奥六郡では、北朝側が岩手郡に侵攻し、上田城(盛岡市上田)を築いて、南朝側の栗屋河城と向かい合っていた。おそらく、正平5年(観応元年・1350)の春の雪解けを待って戦闘が開始されたと考えられるが、『遠野南部家文書』の正平5年と比定される6月18日付け「北畠顕信書状」によると、和議が成立したという。この書状は宛名が「前遠江守」となっており、政長はこのときすでに第一線を引き退いていたことが分かる...