◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

第3回 奥州小幕府

 ところが、「今の例は昔の新儀なり。朕が新儀は未来の先例たるべし」という大変な意気込みで始められた後醍醐天皇の新政府は、その当初から一枚岩とはならなかった。武家の棟梁たらんとする足利高氏と、それを鎌倉幕府の再来になると危険視した護良親王が対立したのだ。後醍醐は早速、京都帰還の翌日の6月5日に高氏を鎮守府将軍に任じ、同月13日には護良親王を征夷大将軍に任じた。

 

 鎌倉を落とした後そこに滞在していた新田義貞は、5月中に高氏が下した細川和氏・頼春・師氏三兄弟と対立し、合戦寸前にまでなったが、義貞は「野心は無い」との起請文を出し、その後上洛した。後には高氏の子千寿王が残された。千寿王はまだ4歳だったので、『東国の南北朝動乱』によると、実質は足利氏一族の斯波家長が鎌倉を掌握したというが、家長もこのときまだ13歳であるので、細川三兄弟などの援けがあったものと考えられる。

 

 その頃東北地方では旧幕府の北条得宗家の影響が非常に強く、新しい建武政権に加担して良いものか迷う領主もいた。そのような中で8月5日、北畠顕家が陸奥守に、同15日に葉室光顕が出羽守に任じられ、建武政権の奥羽支配が始まった。顕家は10月に義良(のりなが)親王を奉じて、父親房とともに陸奥国多賀城に入り政務を開始した。その組織の顔ぶれを見ると、首脳部に顕家とともに下ってきた公家の冷泉家房らとともに、奥州に所領を持つ結城宗広・親朝や伊達行朝らが加わり、旧幕府の役人だった二階堂行朝(行珍)なども顔を連ねている。これを奥州小幕府と呼ぶこともある。顕家は当時まだ16歳だったので、佐藤進一氏は『保暦間記』の記述を証拠とし、奥州小幕府の制度を作ったのは父の親房と護良親王としているが、伊藤喜良氏は親房が記した『神皇正統記』の記述を証拠とし、奥州小幕府は親房と後醍醐との合作だとしている。

 

 一方関東地方では、顕家の陸奥守就任と同時に高氏が武蔵守に任じられ、名も後醍醐天皇の諱尊治から一字を賜り尊氏と改名し、11月8日には尊氏の弟直義が相模守に任じられ、12月14日、直義は上野国守護成良親王を奉じて鎌倉に向けて出発し、関東10ヶ国(相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野・甲斐・伊豆)を管轄とした。後の鎌倉府の先駆けだ。

 

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次回、「第4回 南部師行の糠部派遣」はこちら

 

北の南朝 −南部師行・政長兄弟− 目次

第1回

後醍醐天皇

第2回

南部時長らの奮戦と鎌倉幕府の滅亡

第3回

奥州小幕府

第4回

南部師行の糠部派遣

第5回

津軽安藤氏の乱

第6回

鎌倉幕府の滅亡と曽我氏の内部対立

第7回

糠部郡衙での師行

第8回

北奥になかなか根付かない建武勢力

第9回

認められない旧得宗領の所領宛がい

第10回

持寄城降伏

第11回

師行が手にした津軽内摩部郷

第12回

師行の津軽出動と中先代の乱

第13回

師行文書の終焉と尊氏の謀反

第14回

顕家の第一次西上作戦

第15回

師行出陣と尊氏の九州下向

第16回

尊氏の復活と南北朝時代の幕開け

第17回

顕家の第二次西上と師行・顕家の死

第18回

後醍醐の死

第19回

顕信奥州に登場

第20回

津軽・糠部方面の戦いの終焉

第21回

北関東と南奥の情勢

第22回

多田系和賀氏の発祥

第23回

政長の死
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