◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

第6回 鎌倉幕府の滅亡と曽我氏の内部対立

 安藤氏の乱で地元津軽から出陣した曽我氏は、得宗家御内人であり、先祖は桓武平氏の平良文(『続群書類従』「曽我系図」。良文は平将門の叔父)で、その一族は得宗領地頭代として津軽地方に多数が入部していた。津軽の騒乱は、一時的には沈静化したようにみえたが、安藤氏とともに津軽で力を持っていた曽我氏にも内部対立があり、鎌倉幕府の滅亡とともにまたも大きな混乱を招いた。

 

 既述した通り、正慶2年(元弘3年・1333)5月22日、新田義貞の攻撃により鎌倉が陥落し、北条高時以下幕府の要人・関係者が東勝寺ほか鎌倉の随所で自決して果てると、後醍醐天皇は元号を元弘に戻し、念願の親政を開始した(建武政権)。そのため、得宗領はすべて建武政権のものとなり、地頭代として君臨していた御内人曽我氏や安藤氏などは公権を持たない、ただの私占有者に成り下がってしまった。元御内人たちが混乱するなか、足利尊氏はいち早く奥州に目をつけ、政権発足直後の6月5日には鎮守府将軍に補され、一族の尾張弾正左衛門尉を外浜へ派遣してきた。建武政権は国司制度改革を政策の柱に掲げていたが、8月5日には北畠顕家を陸奥守に任じ、奥州は国司の支配下に入ることとなった。このような、地方の人々にとっては理解しがたい事件が頻発する大混乱の情勢の中、幕府の要人であった名越時如(妻は第15代執権北条貞顕の姉妹)と安達高景(秋田城介・幕府評定衆)が津軽地方へ落ちのびてきた。そして、それを受け入れたのが、津軽曽我家の惣領である曽我道性であった。

 

 道性には、鎌倉幕府が滅亡して時代が大きく転換するということが理解できなかったのかもしれない。かねてから内部対立のあった津軽曽我氏は、伝統的な権威である旧幕府要人を擁護した宗家と、新しく、まだ怪しい存在である建武政権についた庶子系(光高)に分かれて旗幟が鮮明となった。

 

 道性は大光寺楯に籠り、同年の12月から合戦が開始されたようだ。『遠野南部家文書』の元弘4年(1334)正月10日付け「曽我乙丸代沙弥道為軍忠状」によると、少なくとも衝突は12月11日、翌年正月1日、同8日の3回はあった。攻める建武政権側の諸将は、曽我光高、安藤五郎太郎高季(3年前に西浜を父から譲られたがまだ建武政権からは安堵されていない)、田舎郡の工藤中務右衛門尉貞行、それに尾張弾正左衛門尉などであった。彼らには陸奥国司北畠顕家と鎮守府将軍足利尊氏の二人から指示が来て、指揮系統が一本化されていなかったはずだが、それでも大光寺楯は陥落し、道性らは石川楯へと逃れた。

 

 さきの「南部時長・師行・政長陳状案」は、ちょうどこの頃に認められたものである。このあとの津軽の騒乱については、以降の師行の記述に沿って述べていくことにする。

 

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次回、「第7回 糠部郡衙での師行」はこちら

 

北の南朝 −南部師行・政長兄弟− 目次

第1回

後醍醐天皇

第2回

南部時長らの奮戦と鎌倉幕府の滅亡

第3回

奥州小幕府

第4回

南部師行の糠部派遣

第5回

津軽安藤氏の乱

第6回

鎌倉幕府の滅亡と曽我氏の内部対立

第7回

糠部郡衙での師行

第8回

北奥になかなか根付かない建武勢力

第9回

認められない旧得宗領の所領宛がい

第10回

持寄城降伏

第11回

師行が手にした津軽内摩部郷

第12回

師行の津軽出動と中先代の乱

第13回

師行文書の終焉と尊氏の謀反

第14回

顕家の第一次西上作戦

第15回

師行出陣と尊氏の九州下向

第16回

尊氏の復活と南北朝時代の幕開け

第17回

顕家の第二次西上と師行・顕家の死

第18回

後醍醐の死

第19回

顕信奥州に登場

第20回

津軽・糠部方面の戦いの終焉

第21回

北関東と南奥の情勢

第22回

多田系和賀氏の発祥

第23回

政長の死
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