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第7回 糠部郡衙での師行

 正慶2年(元弘3年・1333)12月18日には、九戸が結城親朝に与えられた(『白川文書』)。九戸には戦国時代に九戸政実が生まれ、豊臣秀吉に敵対し「九戸政実の乱」に発展するのだが、それは本稿の述べる範囲では無い。

 

 さて、糠部にやってきた師行は、元弘4年(1334)以降、糠部郡の郡衙にて辣腕を振るうことになる。その様子は、現存する『遠野南部家文書』から垣間見ることができる。当該文書を元に師行の仕事を時系列に追いかけてみよう。

 

 元弘4年2月18日付けの国宣が陸奥国府から師行の元に届いた。内容は、久慈郡(岩手県久慈市周辺)が信濃前司入道行珍(二階堂行朝)に与えられたので、その沙汰付を命じたものである(入道行珍の代官への引渡しを執行せよという命令)。久慈郡は北条得宗領であったと考えられ、それが闕所(領主不在)となり陸奥国府の評定衆である入道行珍に宛がわれたわけである。なお、現在のところこの文書が「久慈郡」の名が記されたものとしては最古のものである。また、この国宣により久慈郡が師行の検断の範囲だったことが分かる。

 

 2月22日付けの国宣。比内南河内(秋田県大館市周辺)を預かる大田孫太郎行綱の代官行俊が陸奥国府にその地を安堵してくれるように申し出て、それが許可されたので師行は沙汰付を命じられた。これにより、比内郡も師行の検断の範囲だったことが分かる。

 

 すでに元号は正月29日に改元して建武となっていたが、『遠野南部家文書』の元号も以降は建武に変わる。

 

 3月3日付けの国宣。閇(閉)伊郡大沢村(岩手県山田町大沢)の御牧馬(官営牧場の馬)が何者かに殺されたり捕らえられたりして、石見左近大夫有資(領主か)から報告を受けた(副・守常からも解状がきた)。国府は山田六郎が怪しいと踏んでいるので、師行は彼を逮捕するように命じられた。山田六郎はその苗字からして現地の人物であろうが詳細は不明である。師行は検断職にある以上、こういった司法警察の任務を遂行することも重要である。また、これにより閉伊郡も師行の検断の範囲だったことが分かる。

 

 3月21日付けの国宣。鹿角郡(秋田県鹿角市周辺)の闕所が地頭等に宛がわれたため、下文によって沙汰居するように命じられた。これにより、鹿角郡も師行の検断の範囲だったことが分かる。

 

 4月13日付けの国宣。多田貞綱を津軽へ下向させるが、まず糠部へ向かわせるので、師行は貞綱に協力するよう命じられた。さきに大光寺楯を逃れて石川楯に籠った曽我道性への対応も含めて、奥州小幕府は、津軽方面の人事体制を強化すべく摂津源氏の多田木工助貞綱を投入することに決めたのだろう。

 

 4月晦日。津軽に向かう多田貞綱から指示が来た。糠部郡の以下の闕所、
 ・一戸 工藤四郎左衛門入道跡
      同子息左衛門次郎(義村)跡 八戸上尻打
 ・八戸 工藤三郎兵衛尉跡
 ・三戸 横溝新五郎入道跡
 を、師行・戸貫出羽前司・河村又二郎入道の三名で共同して預かるように指示したものだ。なお、貞綱は奥州の情勢に疎かったらしく、後に国府に呼び戻され、『史料解読 奥羽南北朝史』によるとその後は会津方面の検断を勤め、足利方に属したということだ。

 

 上記、戸貫出羽前司と書かれているのは中条時長、戸貫は稗貫のことで、稗貫郡(岩手県花巻市)の一部を領していた。時長は『吾妻鏡』にたびたび登場する中条家長の子孫と考えられる。家長は中条成尋の子で、家長の弟苅田義季の子義行は、後で述べるとおり和賀郡(岩手県北上市周辺)の領主和賀氏の祖である。『続群書類従』「小野氏系図」によると、成尋の曽祖父は、武蔵七党の一つ横山党の祖小野(横山)義孝である。また、河村又二郎入道は、藤原秀郷の末裔である波多野(河村)秀高の子孫と考えられる。

 

 5月3日には後醍醐天皇の綸旨が下され、それによると甲斐国倉見山(南都留郡西桂町倉見に比定)が政長に安堵された。政長は前年に奥州の軍勢を率いて鎌倉攻めに参加しているが、そのあとの行動は不明である。新田義貞に従って京に上っていたという説もあるようだ。次に政長の名が史料に現れるのは、翌年の3月10日で、その頃には奥州で活動していたと考えられる。

 

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次回、「第8回 北奥になかなか根付かない建武勢力」はこちら

 

北の南朝 −南部師行・政長兄弟− 目次

第1回

後醍醐天皇

第2回

南部時長らの奮戦と鎌倉幕府の滅亡

第3回

奥州小幕府

第4回

南部師行の糠部派遣

第5回

津軽安藤氏の乱

第6回

鎌倉幕府の滅亡と曽我氏の内部対立

第7回

糠部郡衙での師行

第8回

北奥になかなか根付かない建武勢力

第9回

認められない旧得宗領の所領宛がい

第10回

持寄城降伏

第11回

師行が手にした津軽内摩部郷

第12回

師行の津軽出動と中先代の乱

第13回

師行文書の終焉と尊氏の謀反

第14回

顕家の第一次西上作戦

第15回

師行出陣と尊氏の九州下向

第16回

尊氏の復活と南北朝時代の幕開け

第17回

顕家の第二次西上と師行・顕家の死

第18回

後醍醐の死

第19回

顕信奥州に登場

第20回

津軽・糠部方面の戦いの終焉

第21回

北関東と南奥の情勢

第22回

多田系和賀氏の発祥

第23回

政長の死
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