◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

第8回 北奥になかなか根付かない建武勢力

 建武元年(1334)の初夏には、少なくとも4月13日と5月21日に津軽で「石河合戦」が行われた。石川楯に籠った旧鎌倉幕府政権勢には、悪党の名人と称される者や、安藤家の惣領を自称するような「安藤太」など、怪しい人物が参加している。この合戦に際して、師行は糠部を動いた形跡は無く、あいかわらず糠部の郡衙にて政務に没頭していたようである。合戦の指揮は、先月から津軽戦線に登場した多田貞綱が執っていたようだ。その指揮の下、石川楯は陥落し、道性らは逃亡したらしく、合戦の舞台は持寄城に移る。

 

 ところで、曽我光高や配下の者どもは建武政権のために犬馬の労を厭わずに合戦場を走り回ったが、度重なる所領安堵の申請にも関わらず、認められることがなかった。しかも、あろうことか曽我氏重代の所領であった沼楯村が、その土地と無関係な安保弥五郎入道(鹿角からきた友軍の将)に与えられてしまったのである。当然光高は激怒し、国府に厳重に抗議をした。奥州小幕府(建武政権)からすると、旧得宗家によって安堵されていた曽我氏の所領は、あらたに奥州小幕府によって支配者が決まるものであるという考えである。

 

 師行が糠部に赴任してきて半年以上が経過し、そのあいだに建武政権下の新しい領主が糠部郡内に誕生したが、この年に比定される6月12日付けの顕家の御教書によると、一戸新給人横溝孫次郎(浅野太郎跡)、三戸新給人工藤三郎景資(会田四郎三郎跡)、八戸給主工藤孫四郎・同孫次郎らの挙動がおかしく、三戸新給人岩沢大炊六郎入道(大瀬二郎跡)に至っては、津軽の反建武政権勢力と与同して、顕家を嘆かせている。また、奉行である多田貞綱は北奥のことがよくわかっておらず、同僚の平賀景貞と不和になり、景貞のほうは安藤家季と不和であり、状況はかなり悪い。さきの曽我光高の件もあり、まだまだ陸奥国府が北奥の人たちに信用される段階には至っていないようだ。

 

 このような苦しい状況のなか、師行の奮闘は続く。

 

*** 東北の古代・中世史講座のご案内 ***


 クラブツーリズム新宿本社にて、2017年の1年間、東北地方の古代史と中世史の講座を開催します。


 ※「旅の文化カレッジ」2016年12月号掲載



 こちらがそれです!



 1年間かけて東北の古代・中世史を戦国時代の終焉からどんどん遡ってお話しするという内容です。


 第1回は「九戸政実の乱」について取り上げますよ!


 興味のある方は是非おいでください!


クラブツーリズムの詳細ページはこちら

 

次回、「第9回 認められない旧得宗領の所領宛がい」はこちら

 

北の南朝 −南部師行・政長兄弟− 目次

第1回

後醍醐天皇

第2回

南部時長らの奮戦と鎌倉幕府の滅亡

第3回

奥州小幕府

第4回

南部師行の糠部派遣

第5回

津軽安藤氏の乱

第6回

鎌倉幕府の滅亡と曽我氏の内部対立

第7回

糠部郡衙での師行

第8回

北奥になかなか根付かない建武勢力

第9回

認められない旧得宗領の所領宛がい

第10回

持寄城降伏

第11回

師行が手にした津軽内摩部郷

第12回

師行の津軽出動と中先代の乱

第13回

師行文書の終焉と尊氏の謀反

第14回

顕家の第一次西上作戦

第15回

師行出陣と尊氏の九州下向

第16回

尊氏の復活と南北朝時代の幕開け

第17回

顕家の第二次西上と師行・顕家の死

第18回

後醍醐の死

第19回

顕信奥州に登場

第20回

津軽・糠部方面の戦いの終焉

第21回

北関東と南奥の情勢

第22回

多田系和賀氏の発祥

第23回

政長の死
スポンサードリンク



 

ご意見・ご感想は、稲用章

inayouアットマークa.email.ne.jp

までお願いします。