◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

第9回 認められない旧得宗領の所領宛がい

 建武元年(1334)7月2日付けの国宣。横溝六郎三郎入道に給されていた糠部郡南門(岩手県葛巻町周辺)を伊達五郎入道善恵に給したので、師行は沙汰付けを命じられた。

 

 7月21日付けの国宣。八戸の工藤左衛門次郎跡(上尻内)を伊達大炊助三郎光助に給したので、師行は沙汰付けを命じられた。八戸上尻内の工藤左衛門次郎の所領は、4月晦日の国宣によると闕所になっているが、今回の国宣には、たとえ本主(根本の領主)と称し、関東(鎌倉幕府)の証状を捧げ申すと雖も綸旨国宣を帯びていなければ許容するなとあることから、4月以降も工藤左衛門次郎は旧政権(鎌倉幕府)の認定を盾に上尻内(八戸市尻内の尻内館か)に居座り続けた模様である。12月14日付けの「津軽降人交名注進状案」によると、左衛門次郎はその後、津軽の反建武政権勢力に加わったようなので、今回の国宣により強制退去になったようだが、それに代わって八戸に伊達氏が入部した記録などは残っていないようである。

 

 7月29日付けの国宣。糠部郡七戸の内、工藤右近将監の跡を伊達右近大夫将監行朝に与えたので、師行は沙汰付けを命じられた。

 

 8月2日付けの国宣。誰とは記していないが、津軽に「御下向」するので、宿のことなどを工藤右衛門入道と相談して執り行うようにと師行は命じられた。『史料解読 奥羽南北朝史』では顕家の津軽出陣計画のこととしている。なお、実際に誰が「御下向」したかは分かっておらず、計画だけだった可能性もある。

 

 8月3日付けの国宣。遠野保(岩手県遠野市)の領主阿曽沼下野権守の代官朝兼が、角懸左衛門尉(江刺郡角懸の領主)と紛争を起こし、師行はその解決を命じられた。阿曽沼氏は、『尊卑分脈』によると、藤原秀郷の後裔、足利七郎有綱の二男民部丞広綱に始まる。『続群書類従』「秀郷流系図」によると、有綱には五人子供がおり、広綱は民部大夫四郎と称し、四男である。

 

 この文書に記された角懸左衛門尉は、以前は「白懸左衛門尉」あるいは「面懸左衛門尉」と思われており、阿曽沼氏の家臣白(面)懸左衛門尉が「御家騒動」を起し、南部師行が現場に駆け付け鎮圧したことを記した文書だと思われてきた。しかし、これは「白懸」でも「面懸」でもなく「角懸」のことだと分かり、角懸は江刺の角懸で、そこの領主と阿曽沼氏が抗争したという説が現在の定説である。くわえて、師行が遠野に行った事実もなく、『史料読解 南北朝史』が述べている通り、この程度の紛争は日常的であり、こういった紛争が起こるたびに師行本人が現場に出向いていたということは考えられない。

 

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次回、「第8回 持寄城降伏」はこちら

 

北の南朝 −南部師行・政長兄弟− 目次

第1回

後醍醐天皇

第2回

南部時長らの奮戦と鎌倉幕府の滅亡

第3回

奥州小幕府

第4回

南部師行の糠部派遣

第5回

津軽安藤氏の乱

第6回

鎌倉幕府の滅亡と曽我氏の内部対立

第7回

糠部郡衙での師行

第8回

北奥になかなか根付かない建武勢力

第9回

認められない旧得宗領の所領宛がい

第10回

持寄城降伏

第11回

師行が手にした津軽内摩部郷

第12回

師行の津軽出動と中先代の乱

第13回

師行文書の終焉と尊氏の謀反

第14回

顕家の第一次西上作戦

第15回

師行出陣と尊氏の九州下向

第16回

尊氏の復活と南北朝時代の幕開け

第17回

顕家の第二次西上と師行・顕家の死

第18回

後醍醐の死

第19回

顕信奥州に登場

第20回

津軽・糠部方面の戦いの終焉

第21回

北関東と南奥の情勢

第22回

多田系和賀氏の発祥

第23回

政長の死
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