◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

第11回 師行が手にした津軽内摩部郷

 旧政権側の持寄城が降伏し、津軽の騒乱が一段落したあとも、南部師行は淡々と仕事をこなしている。

 

 建武元年(1334)12月15日付けの国宣。七戸の御牧で馬の盗難もしくは殺害事件が発生した模様で、師行はその捜査を命じられた。

 

 明けて翌建武2年(1335)2月21日付けの国宣。糠部郡南門の内、横溝弥五郎入道の跡を横溝彦三郎祐貞に与えたので、師行は沙汰付けを命じられた。

 

 2月30日付けの国宣。糠部郡七戸の内、野辺地を伊達五郎宗政に与えたので、師行は沙汰付けを命じられた。

 

 これまで師行が奥州に所領を得た形跡はなかったが、3月10日付けの尾張弾正左衛門尉宛ての「北畠顕家袖判御教書」によって、ようやく奥州に所領を得たことがわかる。それによると、師行とその一族に「外濱内摩部郷并未給村々、泉田・湖方・中澤・真板・佐比内・中目等村」が宛がわれた。これらの地名のうち、内摩部、湖方、中澤は現在の青森市北西部から蓬田村にかけての地名で、「外浜」(「そとがはま」または「そとのはま」と読む)と呼ばれた範囲である。湖方は潮潟、現在の後潟のことであろう。また、同日には師行の弟政長にも七戸を与える旨の下文が発せられている。その場所はかつて結城七郎左衛門尉朝祐(下総結城氏代6代当主)に与えられたが受け取りを拒否された場所である。七戸はかつて伊達右近大夫将監行朝も受け取りを拒否したことがある。七戸の内野辺地は伊達五郎宗政に給されたようだが、そのあと当該地域で伊達氏が活躍した痕跡はない。政長が七戸を手に入れたことにより、はじめて糠部南部氏が誕生したといえるので、史料で確認できる範囲での実質的な糠部南部氏初代は政長だといえよう。

 

 これより先の元亨2年(1322)、下国安藤家の惣領職と蝦夷沙汰代官職をめぐって、惣領又太郎季長と従兄弟の五郎三郎季久(宗季)が争ったことは既述した。惣領の季長が拠ったのは「外浜内末部」であり、『北の環日本海世界』によるとその居城は現在内真部館跡と呼ばれている遺跡であった可能性が高いという。結局、争いに勝利した宗季(季久から改名)が内摩部郷を手中に収めた。そこは安藤家惣領が拠ったところであるから、非常に重要な場所のはずだが、それが7年後に師行に宛がわれたことになる。安藤家の拠点である内摩部郷が、なぜ師行に与えられたのだろうか。

 

 正中2年(1325)の安藤宗季の譲状(『新渡戸文書』)に記された土地の名前には、内摩部郷らしき名前はない。元徳2年(1330)の譲状(『新渡戸文書』)にも出てこない。本拠の内摩部郷の譲り状は、この時点ではまだ書いていないか、譲り状が現存していないだけであろう。

 

 建武元年(1334)3月12日、安藤五郎太郎高季(宗季の子)へ平賀郡上柏木郷を宛がった旨の下文が、顕家から発せられた(『新渡戸文書』)。安藤一族内でも、建武政権につくかどうか、その去就をめぐって意見の対立があったと想像できる。したがってこの宛がいは、顕家の安藤氏に対する懐柔策とみていいだろう。しかし、同年と比定される6月12日付けの顕家御教書には、顕家が外浜の情勢など、相変わらず安藤氏に対してかなり疑念を抱いていることが記されているので、平賀郡上柏木郷を宛がったくらいでは、安藤氏は恭順の態度を示さなかったのだろう。

 

 建武の新政後、内摩部郷は安藤氏から一時取り上げられたが、安藤氏はそれが再び安堵されることを願っていた(当然そうなることが当たり前と思っていた)。しかし、残念ながらその地は師行に渡ってしまった。既述した曽我光高が激怒した件と同じ失策を国府はまたも侵してしまった。それとともに、安藤氏にとっては、蝦夷の沙汰に関する権利を認められることが重要だということがわかっていないことも、国府の落ち度である。奥大道の終点であり、交易の玄関口である油津のすぐ近くの内摩部郷、つまり経済的に重要な場所に師行を配置したということは、国府は安藤氏を頼りとせずに、排除する方向に政策転換をしたと読み取れる。師行には、安藤氏を切り崩し、津軽を安定させる任務が与えられたと考えていいが、顕家の命により南部氏が安藤氏の本拠地を侵したことが、南部氏と安藤氏の抗争の原点であるように思えてならない。そして、その原因は北奥の情勢に疎い国府の失策に帰結するのではないだろうか。

 

 内摩部郷は安藤氏から取り上げられてしまったが、外浜から安藤氏が消えることはなかった。内摩部郷の「内真部館」は、師行の代官に押収されたと考えていいが、その後も安藤氏は続くのである。『北から見直す日本史』が引く「奥州下国殿之代々名法日記」によると、宗季の子四郎道貞が潮潟を姓とし、四郎重季、師季と続いたという。潮潟を姓としたことから、居城は「内真部館」から、後潟にある「尻八館跡」に移ったのかもしれない。もしかすると、師行は外浜の一部を受け取ったあと、それを本来の領主である安藤氏に代官として管理させていたのかもしれない。

 

 少しあとのことになるが、約一世紀後の嘉吉2年(1442)、十三湊に居た下国安藤盛季が、南部氏の攻撃によって十三湊を追われ北海道へ渡った後、潮潟の安藤師季が八戸に連行され、安藤家惣領の証である「安藤太」を名乗らされ、政季と改名し田名部(青森県むつ市)に置かれた。田名部も建武の新政までは安藤氏の領地だった場所だ。本来自分の領地であったはずの場所に、安藤氏は南部氏の安藤氏懐柔のための「傀儡」として住まわされることになるのである。

 

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次回、「第12回 師行の津軽出動と中先代の乱」はこちら

 

北の南朝 −南部師行・政長兄弟− 目次

第1回

後醍醐天皇

第2回

南部時長らの奮戦と鎌倉幕府の滅亡

第3回

奥州小幕府

第4回

南部師行の糠部派遣

第5回

津軽安藤氏の乱

第6回

鎌倉幕府の滅亡と曽我氏の内部対立

第7回

糠部郡衙での師行

第8回

北奥になかなか根付かない建武勢力

第9回

認められない旧得宗領の所領宛がい

第10回

持寄城降伏

第11回

師行が手にした津軽内摩部郷

第12回

師行の津軽出動と中先代の乱

第13回

師行文書の終焉と尊氏の謀反

第14回

顕家の第一次西上作戦

第15回

師行出陣と尊氏の九州下向

第16回

尊氏の復活と南北朝時代の幕開け

第17回

顕家の第二次西上と師行・顕家の死

第18回

後醍醐の死

第19回

顕信奥州に登場

第20回

津軽・糠部方面の戦いの終焉

第21回

北関東と南奥の情勢

第22回

多田系和賀氏の発祥

第23回

政長の死
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