◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

第14回 顕家の第一次西上作戦

 弟が窮しているとの報告を受けた足利尊氏は、ついに意を決し、小山一族を率いて12月8日に鎌倉を出陣し、新田義貞勢に襲い掛かった。

 

 尊氏はいざ合戦場に出ると、もの凄く勇猛な武者となる。その尊氏の軍勢の勢いに押された義貞勢は箱根竹の下(静岡県小山町竹之下)の合戦で打ち負け、算を乱して退却した。

 

 尊氏勢は義貞勢を追撃し、佐野山(三島市)、伊豆国府(同)、三ヶ日と続けて勝ち、義貞勢は天竜川を越えて退こうとした。ところが、川が深く流れも速く渡渉が困難だったため急きょ橋を作った。義貞は一人残らず渡り終えたことを確認して最後に渡る。橋を渡り終えた義貞勢の部将が、義貞に橋を破壊することを献策したところ、義貞は腹を立て、急に襲われて慌てふためいていると言われるのは末代に至るまで口惜しいと言い、橋は壊さずに義貞勢は退いていった。

 

 やがて戦いは勢田の攻防戦へ移る。足利勢は直義を大将として、副将に高師泰。対する後醍醐勢は千種忠顕・結城親光・名和長年。彼ら三名は楠木正成と並んで「三木一草」と呼ばれた。結城の「き」、名和長年は伯耆守であったので、伯耆の「き」、楠木の「き」、それに千種の「くさ」で、「さんぼくいっそう」である。勢田の攻防は翌建武3年(1336)正月3日から矢合わせが始まったが、結果は足利勢の勝利で、足利勢はその勢いを駆って突き進み、慌てふためいた後醍醐は神器とともに比叡山に逃れ、11日には尊氏が京都に入った。このとき、結城親光は偽って降り、大友貞載を討とうとしたが、逆に斬り殺された。

 

 一方陸奥では、津軽の内摩部郷を師行に与えて以来、疑心暗鬼が募っていた安藤氏に対し、北畠顕家は建武2年(1335)閏10月29日に、「陸奥国津軽鼻和郡絹家嶋尻引郷・片野辺郷・糠部宇曽利郷、中浜御牧、湊以下、同西浜地頭代職」を安藤高季に安堵し(『新渡戸文書』同日付け「北畠顕家袖判御教書」)、後顧の憂いを断って、12月22日、陸奥国府から第一次西上軍を率いて出陣した。顕家はこれより前に鎮守府将軍に任じられていたが、従二位の顕家は、五位相当の鎮守府将軍就任に不服で、『職原鈔』によると建武3年の勅で、三位以上の者が就任した場合は「大」の字をつけて鎮守府大将軍とすることになった。

 

 さて、この戦いには伝承では師行と政長は従軍せず、政長の子信政が代理で従軍したと伝わっている。顕家が師行に糠部留守を命じた理由は、津軽方面の雲行きが怪しかったからであろう。顕家軍には奥州から諸氏が広く参加したと考えられ、『遠野市史』によると、遠野からも、阿曽沼権太郎(十五歳)が、宇夫方親定、高野主計、平倉彦三郎、板沢源蔵、宮森平三郎、達曽部孫七郎、清水平十郎(平清水か)を引き連れて参加したと伝わっている。権太郎は朝綱のこととされているが、もし顕家軍に参加したのが本当だとすると、朝綱は遠野ではなく、下野の阿曽沼本家を継いでいたと考えられるので、権太郎は別の人物(遠野の代官)である可能性がある。『阿曽沼家乗』では、宇夫方親定が朝綱に代って出陣したと伝えている。

 

 顕家率いる奥州勢は猛烈な強さを発揮した。軍隊というものはどれも略奪・暴行は日常茶飯事だが、奥州勢はそれがことのほか酷く、寺社は平気で破却するし、奥州勢の通ったあとには草木も生えないと言われた。その奥州勢はかなりの行軍速度で進み、翌建武3年(1336)正月13日には近江に到着した。そして、尊氏勢と京都内外で戦闘を続け、30日の糺河原の合戦で尊氏は劣勢が明らかとなり、丹波篠村(京都府亀岡市篠町篠)へ退去した。

 

 このような強烈な奥州勢を率いることができた顕家には、おそらく人間的魅力が備わっていたものであると思う。もちろん能力も並々ならず、顕家の背後には父親房など、影の存在の活躍があったとは思うが、顕家本人に人間的魅力が備わっていないと、奥州をひとまとめにすることなどはできない。顕家は公卿の出身だが、その将器には並々ならぬものがあった。

 

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次回、「第15回 師行出陣と尊氏の九州下向」はこちら

 

北の南朝 −南部師行・政長兄弟− 目次

第1回

後醍醐天皇

第2回

南部時長らの奮戦と鎌倉幕府の滅亡

第3回

奥州小幕府

第4回

南部師行の糠部派遣

第5回

津軽安藤氏の乱

第6回

鎌倉幕府の滅亡と曽我氏の内部対立

第7回

糠部郡衙での師行

第8回

北奥になかなか根付かない建武勢力

第9回

認められない旧得宗領の所領宛がい

第10回

持寄城降伏

第11回

師行が手にした津軽内摩部郷

第12回

師行の津軽出動と中先代の乱

第13回

師行文書の終焉と尊氏の謀反

第14回

顕家の第一次西上作戦

第15回

師行出陣と尊氏の九州下向

第16回

尊氏の復活と南北朝時代の幕開け

第17回

顕家の第二次西上と師行・顕家の死

第18回

後醍醐の死

第19回

顕信奥州に登場

第20回

津軽・糠部方面の戦いの終焉

第21回

北関東と南奥の情勢

第22回

多田系和賀氏の発祥

第23回

政長の死
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