◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

第16回 尊氏の復活と南北朝時代の幕開け

 九州で力を蓄えていた尊氏は、九州の諸将を従え4月3日に大宰府をあとにして上洛の途につき、5月5日には、備後の鞆(広島県福山市鞆町)に着いた。

 

 尊氏が東へ進んでいた4月16日には、斯波家長に属する相馬胤康らが、奥州に下向途中の北畠顕家勢と相模国片瀬河(神奈川県藤沢市)で戦い、胤康は討ち死にしている。相馬一族もすべてが家長に味方したわけではなく、胤平は建武政権側に付き、胤平は26日に左衛門尉に推挙されている。

 

 先だって出羽守に任命されて出羽に下っていた葉室光顕は、5月21日に現地で殺害されてしまった。後醍醐は出羽方面にも何らかの手を打ったと思われるが、その方面の状況は知られていない(葉室光顕の死去は前年の末という説もある)。

 

 各地で戦いながら陸奥国府を目指していた顕家の軍勢は、24日には相馬氏の小高城(福島県南相馬市)を攻略した。このとき、相馬光胤・六郎長胤・七郎胤治・四郎成胤が討ち死にしている。

 

 顕家が東に去るのと同期するかのように、西からは尊氏の軍勢が京都を目指し進撃を続け、ついに5月25日に湊川(兵庫県神戸市)で決戦が行われた。水陸両側から攻撃した尊氏勢に対し、建武政権側は新田義貞と楠木正成が応じた。しかし、尊氏勢の猛攻に対し、義貞は支えることができず敗走、後醍醐挙兵時から奮戦を続けてきた正成は自害して果てた。正成は決戦に先立って、後醍醐に対し義貞を誅殺して尊氏を取り立てることを献策していたが、後醍醐はそれを拒否していた。

 

 自軍の敗走に驚いた後醍醐は、27日に比叡山へ逃れた。6月5日の戦いでは、後醍醐の隠岐配流にも供をした千種忠顕が討ち死にし、15日には、尊氏が光厳上皇と豊仁親王を奉じて入京し、東寺に陣を構えた。30日には、かつて隠岐から脱出してきた後醍醐を奉じて以来、ずっと戦い続けた名和長年が討ち死にし、これで「三木一草」の4人全員が鬼籍に入った。それから10月まで後醍醐と尊氏は激戦を繰り広げることになり、義貞は大勢を挽回しようと必死に戦ったが、後醍醐側にとって形勢は思わしくなかった。

 

 一方津軽では、その後も各地で合戦が行われており、5月27日には国府側の倉光孫三郎が籠る小栗山楯を曽我貞光勢が攻め、6月21日にも国府側の田舎楯を曽我勢が攻め、7月12日には曽我勢が楯を構築中の新里と堀越に倉光孫三郎が襲ってきて戦いとなった。8月1日には曽我勢は鹿角国代成田小二郎左衛門尉頼時を退治するために大里楯を攻めた。

 

 8月6日(この文書以降元号が延元にかわっている)付けで、南部政長宛てに顕家の袖判御教書が届いている(『遠野南部家文書』)。そこには、尊氏以下数十人が7月15日に自害したと書かれているので、これを受け取った政長らは狂喜したことだろう。しかし残念ながらこれは誤報であった。

 

 8月15日、光厳上皇の院宣により豊仁親王(後伏見天皇の第二皇子)が光明天皇として践祚して、延元の元号も建武に戻した。10月9日に後醍醐は、新田義貞に東宮恒良親王と尊良親王を奉じさせて越前下向を命じ、その上で翌日、尊氏と和平を結んだ。11月2日、後醍醐から光明に神器が授受され、後醍醐には譲位した天皇を意味する太上天皇の尊号がおくられた。しかし、これごときで屈服する後醍醐ではなかった。

 

 『遠野南部家文書』の11月15日付けの国府から南部六郎(政長)宛ての国宣には、南部又次郎下向の程、警固され郡内を奉行することとある。師行は、やはり府中の顕家のもとに行って中枢部に参画し、糠部の守りは政長に託されていたのだ。

 

 後醍醐は、顕家の弟の顕信に伊勢で兵を集めさせた上で、12月21日、楠木一族を従え吉野に移り、延元の元号を復して朝廷存続を表明した。世に言うところの南朝・吉野朝廷の始まり、南北朝時代の幕開けである。

 

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次回、「第17回 顕家の第二次西上と師行・顕家の死」はこちら

 

北の南朝 −南部師行・政長兄弟− 目次

第1回

後醍醐天皇

第2回

南部時長らの奮戦と鎌倉幕府の滅亡

第3回

奥州小幕府

第4回

南部師行の糠部派遣

第5回

津軽安藤氏の乱

第6回

鎌倉幕府の滅亡と曽我氏の内部対立

第7回

糠部郡衙での師行

第8回

北奥になかなか根付かない建武勢力

第9回

認められない旧得宗領の所領宛がい

第10回

持寄城降伏

第11回

師行が手にした津軽内摩部郷

第12回

師行の津軽出動と中先代の乱

第13回

師行文書の終焉と尊氏の謀反

第14回

顕家の第一次西上作戦

第15回

師行出陣と尊氏の九州下向

第16回

尊氏の復活と南北朝時代の幕開け

第17回

顕家の第二次西上と師行・顕家の死

第18回

後醍醐の死

第19回

顕信奥州に登場

第20回

津軽・糠部方面の戦いの終焉

第21回

北関東と南奥の情勢

第22回

多田系和賀氏の発祥

第23回

政長の死
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