◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

第17回 顕家の第二次西上と師行・顕家の死

 陸奥に再下向した顕家は附近の北朝勢力を掃討したが、12月11日には北関東の南朝側の拠点で、楠木一族が拠っていた瓜連城(茨城県那珂市瓜連)が佐竹氏に攻められ落城した。これにより常陸・下野方面の南朝側勢力は分散してしまった。

 

 翌延元2年(建武4・1337)正月8日には顕家は、多賀国府の維持が困難であることを悟り、多賀城を捨て、伊達郡の霊山(福島県伊達市・相馬市)に本拠を移した。霊山は守るには良い場所で、宇多川を下れば太平洋の松川浦に出ることができるが、行政府としては適当な場所では無かった。

 

 一方、津軽の田舎楯(青森県田舎館村)では正月24日に合戦が行われ、2月3日には後醍醐は、南奥の結城宗広(「三木一草」の親光の父)に一族を率いて上洛するように催促する書状を発した。

 

 昨年10月に恒良親王と尊良親王を奉じさせて北陸に下向し、金崎城(福井県敦賀市金ヶ崎町)に籠っていた新田義貞は、3月6日に金崎城を落とされ、義貞は脱出したが、義貞の嫡子義顕と尊良親王は自害、恒良親王は捕縛されてしまった。

 

 後醍醐にとって、北陸の新田氏が頼りにならないとしたら、残りの勢力でもっとも頼りになるのは陸奥の北畠顕家である。5月14日には、結城宗広のもとに顕家上洛後の陸奥の留守を命じる書状が送られているので、この頃すでに、顕家の第二次西上の計画は上がっていた。しかし、霊山は中賀野義長に狙われ、18日には椎葉郡(標葉郡)中前寺で、21日には行方軍安子橋で合戦が起きた。

 

 かつて南部師行とともに北奥の軍事を任された多田貞綱は、その後更迭されたことは既述したが、この頃には、親房の一族春日顕国とともに、下野の小山城(栃木県小山市)を攻撃して撃退されている。

 

 北奥でも合戦が起き、7月11日には鹿角郡の二藤次楯・雷楯・大豆田楯、ついで14日には同じく鹿角郡の大里楯で合戦が行われた。それらの戦いに、師行の留守を預かる政長が出陣したかどうかはわからない。

 

 四面楚歌の状況の中、それを振り払うかのように、8月11日、顕家が義良親王を奉じて、第二次西上を開始した。史料上で確認することはできないが、師行もそれに従ったといわれており、遠野の阿曽沼朝綱も宇夫方親定以下十七騎を率いて参陣したという。

 

 今回の顕家の進軍は捗らず、ようやく12月13日に上野の利根川河畔にまでたどり着き、そこで合戦し、16日には武蔵安保原で戦った。

 

 南朝の顕家に対して、尊氏は斯波家長を奥州の要に用いてきたが、その家長は鎌倉で顕家を迎撃し、家長は討ち負け、25日に鎌倉杉本観音堂で自害した。17歳であった。顕家はこの時20歳なので、若い世代同士の戦いであった。家長とともに鎌倉を守っていた尊氏嫡男義詮は三浦半島に逃亡した。顕家は出陣してから鎌倉を落とすまで4ヶ月以上掛かっている。

 

 翌延元3年(建武5・1338)正月2日、顕家軍は鎌倉を発ちさらに西に向かった。2月、北朝側は戦死した家長にかわって、石塔義房を奥州総大将に任じた。石塔義房も足利氏一族である。

 

 西上した顕家軍は、正月28日の美濃国青野原の合戦のあと、不思議なことに京には向かわず伊勢方面へ向かった。伊勢には父の親房がいるが、青野原の合戦のあと新田義貞と連携して京に向かっていれば、あるいはまた京を奪還することもできたかもしれないが、顕家と義貞が連携したという記録は残っていない。

 

 顕家軍は2月28日には奈良の合戦で敗れ、顕家は河内へ、義良親王は吉野へ走った。顕家軍は、3月8日には天王寺で、15日には渡辺で、16日には再び天王寺で戦い、5月22日、和泉国の堺浦(阿倍野)で高師直と戦い討ち死にした。このとき師行も討ち死にしたといわれている。師行が顕家に付き従って活動していたときの文書は、当然ながら糠部の居館に保管することはできず、それらは散逸してしまった。

 

 師行が糠部郡奉行兼糠部・津軽・鹿角・閉伊・久慈・比内各郡検断として糠部へ下向してから、糠部やその周辺で活動した期間は史料だけを見ると約2年間となる。かなり濃密に職務をこなしていたようだが、津軽方面に若干の所領を得ただけで、官途についた記録も残っていない。師行が奥州にほとんど所領を得なかったのは、甲斐の南部家を継ぐ遺志が強く、奥州へは仕事の関係上赴任してきただけと割り切っており、師行の心の中には最後まで故郷の甲斐のことがあったからではないだろうか。故郷を思う心は今も昔も変わらないだろう。師行には男子がいなかったようだが、もしかすると実はいて、奥州へ赴任する際にはまだ成人しておらず、甲斐の実家に置いてきてしまったのかもしれない。

 

 師行の死後は、弟の政長がその遺志を継いだ。しかしこれは、師行から家督を相続したということではなく、甲斐へ戻ることが不可能になった政長が、別天地の糠部であらたな家を興したと考えたほうが自然である。真の意味での糠部南部氏の誕生である。政長は師行と違って積極的に奥州に根を張り、その後裔も糠部で続いた。以降ではその政長について述べることとする。

 

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次回、「第18回 後醍醐の死」はこちら

 

北の南朝 −南部師行・政長兄弟− 目次

第1回

後醍醐天皇

第2回

南部時長らの奮戦と鎌倉幕府の滅亡

第3回

奥州小幕府

第4回

南部師行の糠部派遣

第5回

津軽安藤氏の乱

第6回

鎌倉幕府の滅亡と曽我氏の内部対立

第7回

糠部郡衙での師行

第8回

北奥になかなか根付かない建武勢力

第9回

認められない旧得宗領の所領宛がい

第10回

持寄城降伏

第11回

師行が手にした津軽内摩部郷

第12回

師行の津軽出動と中先代の乱

第13回

師行文書の終焉と尊氏の謀反

第14回

顕家の第一次西上作戦

第15回

師行出陣と尊氏の九州下向

第16回

尊氏の復活と南北朝時代の幕開け

第17回

顕家の第二次西上と師行・顕家の死

第18回

後醍醐の死

第19回

顕信奥州に登場

第20回

津軽・糠部方面の戦いの終焉

第21回

北関東と南奥の情勢

第22回

多田系和賀氏の発祥

第23回

政長の死
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