◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

第18回 後醍醐の死

 延元3年(建武5・1338)閏7月2日、越前国藤島の灯明寺(福井県福井市)において、新田義貞は斯波高経と戦い討ち死にしてしまい、顕家・義貞と相次いで柱石を失った南朝は、急遽次の戦略を立てなければならなくなった。

 

 8月11日には、尊氏は積年の夢であった征夷大将軍に任じられた。官位も上がり、今や正二位である。弟の直義も従四位上に叙され左兵衛督に補された。

 

 後醍醐は秋ごろ、結城宗広の献策により伊勢の大湊から多くの船団を陸奥に向かわせた。その顔ぶれは、義良親王(後の後村上天皇)、宗良親王、陸奥介鎮守府将軍北畠顕信(顕家の弟)、北畠親房(顕家の父)、結城宗広、伊達行朝らだ。ところが、遠州灘で暴風雨に遭い、義良親王や顕信、結城宗広らは伊勢に吹き戻されてしまった。大勢の軍勢を失った船団だったが、親房と伊達行朝は常陸国東条浦に流れ着く。親房は神宮寺城(茨城県稲敷市)、ついで河波崎城(同)、そして小田治久の小田城(茨城県つくば市)に入り活動を開始した。当時の常陸の三大豪族のうち、小田氏は南朝方、佐竹氏と大掾氏は北朝方であった。

 

 親房は、北関東・南東北の諸氏に頻繁に書状を送り、何とか南朝勢を立て直そうと必死に働いた。その中でも特に白河結城氏は頼りにしていたようで、結城親朝と交信した書簡が数多く残っている。親朝は南朝で抜群の功績のあった宗広の子で、親光の兄である。

 

 親房一族の春日顕国は、翌延元4(暦応2年・1339)2月27日には、下野に下っており、矢木岡城を落とし、その月の内には益子城も落とし、その影響で箕輪城が自落し、4月12日には常陸に転じ、中郡城の攻撃を企てている。

 

 一方、糠部の政長は、国府の幹部が不在だったため、上部からの指示がない状態で、しばらくのあいだは津軽や鹿角方面の南朝勢と有機的に連絡をとりながら、非常な緊張感のもと職務に専念していたと考えられる。

 

 3月17日には、足利直義から政長宛に降伏勧告状が認められたが(『遠野南部家文書』同日付け「足利直義書下」)、ちょうどそのころ、南朝勢が大挙して津軽に乱入していた。大将軍先代越後五郎を筆頭に、南部六郎普類(政長類親)、成田小次郎左衛門尉(頼時)、成田六郎、工藤中務右衛門尉跡の若党等、安保小五郎、倉光孫三郎、瀧瀬彦次郎入道という顔ぶれである。南朝勢は大光寺外楯(大光寺楯の外郭のことか)を打ち落としたが、曽我貞光一族の曽我孫次郎師助の代官らが馳せ来たり、3ヶ月におよぶ戦いののち、南朝勢は退散した(『遠野南部家文書』暦応2年5月20日付け「曽我貞光軍忠状」)。なお、大将軍先代越後五郎は、「曽我貞光申状土代」に「御敵越後五郎号先代一族」と書かれている。北条氏の一族である。その後も津軽では合戦が続き、6月には南朝勢の安藤四郎が尻引楯を攻め、ついで9月23日、10月と合戦が相次いだ(『遠野南部家文書』暦応2年11月1日付け「曽我貞光軍忠状」)。

 

 『遠野南部家文書』の5月15日付け「石塔義房書下写」によると、北朝側の石塔義房が閉伊左衛三郎に対して急ぎ出陣するように求めている。また、昨年12月19日に帰還命令があって関東から京に帰った上杉憲顕にかわり、高師冬を鎌倉に下らせ、鎌倉に舞い戻っていた義詮とともに関東を治めさせた。師冬は8月4日に鶴岡八幡宮に戦勝祈願をしている。なお、閉伊左衛三郎は左衛門三郎の誤記であろう。

 

 混沌とした情勢のなか、8月16日、波乱の人生を歩んだ後醍醐天皇が薨去した。享年52歳。後醍醐は没する前日、皇位を義良親王(後村上天皇)に継がせていた。顕家らとともに奥州で苦労し、戦陣も経験した親王が践祚したのである。

 

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次回、「第19回 顕信奥州に登場」はこちら

 

北の南朝 −南部師行・政長兄弟− 目次

第1回

後醍醐天皇

第2回

南部時長らの奮戦と鎌倉幕府の滅亡

第3回

奥州小幕府

第4回

南部師行の糠部派遣

第5回

津軽安藤氏の乱

第6回

鎌倉幕府の滅亡と曽我氏の内部対立

第7回

糠部郡衙での師行

第8回

北奥になかなか根付かない建武勢力

第9回

認められない旧得宗領の所領宛がい

第10回

持寄城降伏

第11回

師行が手にした津軽内摩部郷

第12回

師行の津軽出動と中先代の乱

第13回

師行文書の終焉と尊氏の謀反

第14回

顕家の第一次西上作戦

第15回

師行出陣と尊氏の九州下向

第16回

尊氏の復活と南北朝時代の幕開け

第17回

顕家の第二次西上と師行・顕家の死

第18回

後醍醐の死

第19回

顕信奥州に登場

第20回

津軽・糠部方面の戦いの終焉

第21回

北関東と南奥の情勢

第22回

多田系和賀氏の発祥

第23回

政長の死
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