◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

第19回 顕信奥州に登場

 鎌倉に入った高師冬は、積極的に活動して、小田城に籠る関東の南朝の中心である北畠親房を狙った。師冬は上杉憲顕とともに、この年関東執事となり、関東管領である尊氏の嫡子義詮を助ける。

 

 翌延元5年(暦応3年・1340)2月には「中奥」(奥州中部)で合戦があり、河村四郎以下が南朝側についた。この河村四郎は、名取郡の河村氏と考えられる。

 

 6月25日には、足利直義から政長宛に再度降伏勧告状が認められた(『遠野南部家文書』同日付け「足利直義御教書」)。しかし、さきのものと加え、二度に渡る降伏勧告によっても政長は動じた様子を見せていない。なお、直義からの降伏勧告はその後もしつこく続き、翌年2月7日付けと貞和2年(1346)4月11日付けのものが現存する(『盛岡南部家文書』)。

 

 先に陸奥行きを企て、伊勢に吹き戻されてしまった鎮守将軍北畠顕信は、この年には田村宗季に擁されて宇津峰城(福島県須賀川市)に入り、秋頃には、葛西氏に擁されて石巻の日和山城(宮城県石巻市)に入ったという。奥州小幕府の復活を望んでいたかどうかは分からないが、親房と南北から多賀国府にいる石塔義房を挟撃する作戦であったと考えられる。顕信はまだ若いが、陸奥に来る前はすでに伊勢国の国司を経験している。

 

 『鬼柳文書』の暦応3年9月10日付け「石塔義元下知状」によると、和賀鬼柳左衛門四郎(憲義)が北朝に転じ、所領を安堵されている。鬼柳氏は北朝に寝返るとともに、すぐに南朝方の同族である須々孫氏の須々孫城を清義が攻撃している(『鬼柳文書』暦応3年9月12日付け「石塔義元感状」)。

 

 11月7日には、政長から顕信へ近況についての報告書が認められ、12月20日には顕信が返書を認めている(『遠野南部家文書』同日付け「北畠顕信袖判御教書」)。それによると、津軽安藤一族らが南朝側に鞍替えしたこと、「鹿角合戦」に将監が活躍したこと、岩手西根(岩手県八幡平市西根寺田)を退治して要害を構えたこと、来春には和賀と滴石が一手となって斯波を退治してもらいたいこと、葛西氏と協力して、和賀稗貫あたりまで進出して欲しいこと、河村六郎(斯波郡の河村氏の一族で名取郡の六郎左衛門)を味方に誘って欲しいこと、また働き次第では長貞と長継に官途を与えるであろうことなどが分かる。長貞と長継は他の史料には現れないが、師行・政長らと共に甲斐から下ってきた南部一族であろう。このように顕家・師行没後の北奥の南朝勢は、意気消沈するどころか、西根の攻略を目論み、さらに南下して奥六郡(北は岩手郡から南は奥州市にかけて)を席巻しようと、非常な盛り上がりを見せている。顕信が政長の采配に賭けるものは、並々ならぬものがあった。また、この書状の宛先は「南部遠江守殿」になっているので、この頃政長はようやく官職を得ることができたようだ。

 

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次回、「第20回 津軽・糠部方面の戦いの終焉」はこちら

 

北の南朝 −南部師行・政長兄弟− 目次

第1回

後醍醐天皇

第2回

南部時長らの奮戦と鎌倉幕府の滅亡

第3回

奥州小幕府

第4回

南部師行の糠部派遣

第5回

津軽安藤氏の乱

第6回

鎌倉幕府の滅亡と曽我氏の内部対立

第7回

糠部郡衙での師行

第8回

北奥になかなか根付かない建武勢力

第9回

認められない旧得宗領の所領宛がい

第10回

持寄城降伏

第11回

師行が手にした津軽内摩部郷

第12回

師行の津軽出動と中先代の乱

第13回

師行文書の終焉と尊氏の謀反

第14回

顕家の第一次西上作戦

第15回

師行出陣と尊氏の九州下向

第16回

尊氏の復活と南北朝時代の幕開け

第17回

顕家の第二次西上と師行・顕家の死

第18回

後醍醐の死

第19回

顕信奥州に登場

第20回

津軽・糠部方面の戦いの終焉

第21回

北関東と南奥の情勢

第22回

多田系和賀氏の発祥

第23回

政長の死
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