◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

第20回 津軽・糠部方面の戦いの終焉

 『白河文書』の興国元年(1340)と比定される12月25日付けの「宮内少輔清顕書状」によると、懸案になっていた河村六郎と葛西一族らが南朝側に寝返った。葛西氏はもともと南朝側のはずだが、一族内で当初北朝側についた者もあり、それが南朝側に回ったのだろう。また、「吉野殿」が無事であると記されているが、『史料読解 南北朝史』では、吉野殿を顕家の遺児顕成ではないかと推測している。

 

 翌興国2年(暦応4年・1341)にも奥六郡で南北朝両軍の攻防が繰り返され、2月4日には、南朝側が北朝側の岩崎楯(岩手県北上市和賀町岩崎)を攻撃し、和賀義綱の弟清義が討ち死にしている。また、『白河文書』の興国2年と比定される3月24日付けの「宮内少輔清顕書状」によると、河村氏が南部氏に同心し、『伊勢結城文書』の興国2年後(閏)4月20日付け「五辻清顕書状」によると、昨年の顕信の要望通り、斯波・岩手郡で合戦が行われ、斯波・岩手郡の河村氏は南朝側として戦い、北朝側の稗貫出羽権守一族ら「宗者」が討ち取られている。宗者と書かれていることから出羽権守が討ち取られたと考えられ、おそらくこの出羽権守は、元弘4年(1334)4月13日付けの顕家の国宣で、戸貫出羽前司と書かれている中条時長の子にあたるものと思われる。なお、この時の戦いは政長の采配のもとに行われたと見て良いだろう。

 

 そしてさらに5月16日には、南部(政長)以下の南朝勢力が岩手斯波両郡を進発して栗屋河(岩手県盛岡市)で「部抜党」(稗貫党)と合戦し打ち破り、和賀郡まで進出し、葛西氏と一手になって国府を攻めようとしている(『松平結城文書』興国2年に比定の5月16日付け書状)。これにより、稗貫郡では稗貫一族が「稗貫党」と呼ばれる組織を結成して北朝に属しており、岩手郡にまで勢力を伸ばしていたが、さきに当主と見られる稗貫出羽権守が討ち取られたことに続いて、今回も政長らに打ち破られて壊滅的な打撃を被ったことが分かる。事実これ以降、出羽守系の稗貫氏が歴史の表舞台に立つことは無かった。

 

 このように一時戦線は南朝側に有利に運んでいたが、6月には津軽の北朝側の曽我左衛門尉師助の代官貞光が政長の本拠を衝く作戦に出たので、政長らは後退を余儀なくされた。『遠野南部家文書』の貞和3年(1347)5月付け「曽我貞光申状土代」によると、貞光が「政長等城郭」を攻めようとしたが、滝瀬彦次郎入道以下がそれを阻止しようと貞光勢の行く手を阻み、翌興国3年(康永元年・1342)7月まで数十ヶ度の合戦が繰り広げられたという。文書の内容からかなりの激戦であったと想像でき、言い伝えでは、このとき曽我勢によって政長の籠る根城が攻撃され、現在の城門に残る傷はそのときにできたものだという。『史料解読 奥羽南北朝史』では、曽我勢が南部領の懐深く根城まで侵攻できたはずは無く、曽我勢が攻めた「政長等城郭」は、七戸城のことではないかとしている。確かに、根城を直に攻撃されるほど、防備を手抜きして政長が出陣していたとも思えず、「政長等城郭」は南部領の境界にある城と考えたほうが自然である。しかし、数十ヶ度も合戦が起きたということは、勢いづいた曽我勢が各所の南部勢を撃破しながら、ある程度南部領深くまで侵攻したと考えることもできるし、現在の七戸城跡の築城がこの時点まで遡るかは不明である。七戸城は細かい郭を数えると十郭以上からなる大城郭だが、そのうちの北館の発掘結果からは、城の使用時期は14世紀末から16世紀末とされている。したがって、貞光が攻撃した「政長等城郭」が七戸城だったとしても、現在見られる大規模のそれではなく、本丸周辺の小規模な館であったと考えられる。『中世糠部の世界と南部氏』では、現在見られる七戸城の築城は政長の時代ではなく、その孫の政光の時代ではないかとしている。それと、上記の滝瀬彦次郎入道は『鹿角市史』によると安保氏の一族で、武蔵国榛沢郡瀧瀬(埼玉県本庄市滝瀬)を名字の地としたという。

 

 このあと、一時期勢力を盛り返したかに見えた津軽曽我氏は孤立無援となり、延文2年(1357)からそう遠くない時期に南部勢によって滅亡させられたと考えられる。津軽曽我氏の文書類を南部氏が所蔵していることから、津軽曽我氏が南部氏によって滅ぼされたことが分かり、そのもっとも新しいものは、延文2年6月8日付けのものだ。

 

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次回、「第21回 北関東と南奥の情勢」はこちら

 

北の南朝 −南部師行・政長兄弟− 目次

第1回

後醍醐天皇

第2回

南部時長らの奮戦と鎌倉幕府の滅亡

第3回

奥州小幕府

第4回

南部師行の糠部派遣

第5回

津軽安藤氏の乱

第6回

鎌倉幕府の滅亡と曽我氏の内部対立

第7回

糠部郡衙での師行

第8回

北奥になかなか根付かない建武勢力

第9回

認められない旧得宗領の所領宛がい

第10回

持寄城降伏

第11回

師行が手にした津軽内摩部郷

第12回

師行の津軽出動と中先代の乱

第13回

師行文書の終焉と尊氏の謀反

第14回

顕家の第一次西上作戦

第15回

師行出陣と尊氏の九州下向

第16回

尊氏の復活と南北朝時代の幕開け

第17回

顕家の第二次西上と師行・顕家の死

第18回

後醍醐の死

第19回

顕信奥州に登場

第20回

津軽・糠部方面の戦いの終焉

第21回

北関東と南奥の情勢

第22回

多田系和賀氏の発祥

第23回

政長の死
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