◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

第22回 多田系和賀氏の発祥

 結城親朝が北朝についたことは北奥にも影響を与えていたようで、和賀宗家の長義も鬼柳清義が討ち死にした跡の和賀郡内新田郷(北上市有田町)の半分を勲功の賞として、北朝から与えられている(『鬼柳文書』の康永2年(興国4年・1343)8月23日付け「石塔義房宛行状」)。しかし、和賀一族がすべて北朝側に寝返ったわけではなく、須々孫氏は依然として南朝側であるし、のちに和賀氏と合体することになる北上川河東の多田氏も南朝側についている。顕家の時代の奥州小幕府で、津軽方面で活躍した多田貞綱の一族と考えられる多田左近将監は、興国6年(貞和元年・1345)11月4日の時点で玉造郡(宮城県大崎市)方面で活動しており、後の正平元年(1350)には、南朝側に拠り忠節を賞されている。これらが記されている『只野文書』は、後世和賀郡毒沢城主となった多田氏の後裔に伝わっているものである。この多田氏が南北朝時代に和賀郡に入部し、本来和賀家の惣領が治めていたと考えられる、黒岩に住するようになり、また一族が旧東和町域(岩手県花巻市)や、達曽部(旧宮守村域・遠野市達曽部)方面にまで進出したと考えられる。達曽部の多田氏は、後世阿曽沼氏あるいは斯波氏の家臣となったが、和賀・稗貫との境界に近く、半独立的な勢力であったと想像できる。

 

 『遠野南部家文書』の興国6年(貞和元年・1345)2月18日付け「北畠顕信袖判御教書」によると、陸奥国甘美郡(賀美郡)の尊氏跡を南部政長に勲功の賞として宛がうと記されているが、政長が当地を所有した痕跡は無い。

 

 『中館系図』によると、興国6年12月20日の政長の顕信への報告書の返事として、翌春には、和賀滴石が一手となって斯波氏に当たるので、和賀稗貫方面にまで馳せ参じて欲しいとあり、このことは葛西一族にも達してあり、河村六郎も南朝側につくように降参を勧誘して欲しいとある。奥六郡の情勢は、依然として混沌たるものがあった。

 

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次回、「第23回 政長の死」はこちら

 

北の南朝 −南部師行・政長兄弟− 目次

第1回

後醍醐天皇

第2回

南部時長らの奮戦と鎌倉幕府の滅亡

第3回

奥州小幕府

第4回

南部師行の糠部派遣

第5回

津軽安藤氏の乱

第6回

鎌倉幕府の滅亡と曽我氏の内部対立

第7回

糠部郡衙での師行

第8回

北奥になかなか根付かない建武勢力

第9回

認められない旧得宗領の所領宛がい

第10回

持寄城降伏

第11回

師行が手にした津軽内摩部郷

第12回

師行の津軽出動と中先代の乱

第13回

師行文書の終焉と尊氏の謀反

第14回

顕家の第一次西上作戦

第15回

師行出陣と尊氏の九州下向

第16回

尊氏の復活と南北朝時代の幕開け

第17回

顕家の第二次西上と師行・顕家の死

第18回

後醍醐の死

第19回

顕信奥州に登場

第20回

津軽・糠部方面の戦いの終焉

第21回

北関東と南奥の情勢

第22回

多田系和賀氏の発祥

第23回

政長の死
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