◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

第23回 政長の死

 その後奥六郡では、北朝側が岩手郡に侵攻し、上田城(盛岡市上田)を築いて、南朝側の栗屋河城と向かい合っていた。おそらく、正平5年(観応元年・1350)の春の雪解けを待って戦闘が開始されたと考えられるが、『遠野南部家文書』の正平5年と比定される6月18日付け「北畠顕信書状」によると、和議が成立したという。この書状は宛名が「前遠江守」となっており、政長はこのときすでに第一線を引き退いていたことが分かる。このとき既に表には孫の信光が立って活動をしていたのだろう。

 

 正平5年(1350)8月15日には政長は、八戸を信光へ、七戸を後家へ(ただし、政光が成人したら政光に半分を、もう半分を二人の子供のうちどちらかに与えろ)という譲状を認めている(『遠野南部家文書』同日付け「南部政長譲状」二通)。

 

 譲状を認めた後、そう時間を経ずに政長は没したと思われる。政長の没年は分かっていない。

 

 それから約40年後、歴史上の大きな転機が訪れる。明徳3年(元中9年・1392)閏10月5日、後亀山天皇が京に帰り、神器を後小松天皇に授け、ここに南北朝の合一がなったのだ。

 

 この間、政長の子孫の根城南部氏はずっと南朝側についていたのだろうか?

 

 一部の研究者の間では、根城の南部氏は北朝側に鞍替えしたといわれている。確かにこの間に少しずつ台頭してくる三戸の南部氏は北朝側であり、それに従う形で根城の南部氏が北朝側に寝返ったという考えもあるかもしれない。事実、『遠野南部家文書』は、永徳4年(1384)の文書から北朝年号を使っているので、最後の最後で北朝側に寝返った形跡がうかがえる。

 

 しかし、これまで述べてきたとおり、鎌倉時代末期から南北朝時代初期の日本中が戦乱で沸騰した大事な時期、師行・政長は南朝側の武将として活躍した。

 

 問題は南朝が正統だとか北朝が正統だとか、そういうことではない。

 

 師行・政長兄弟は、最初に後醍醐天皇に仕えたときの志を最後まで貫いたという、ビシッと一本筋が通っているところが美しいのである。

 

 本州の最北端で不利な条件にもかかわらず初志を貫徹して戦った南部師行・政長の名は、日本の歴史に残る名将として今なお燦然と光り輝いている。

 

 (了)

 

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北の南朝 −南部師行・政長兄弟− 目次

第1回

後醍醐天皇

第2回

南部時長らの奮戦と鎌倉幕府の滅亡

第3回

奥州小幕府

第4回

南部師行の糠部派遣

第5回

津軽安藤氏の乱

第6回

鎌倉幕府の滅亡と曽我氏の内部対立

第7回

糠部郡衙での師行

第8回

北奥になかなか根付かない建武勢力

第9回

認められない旧得宗領の所領宛がい

第10回

持寄城降伏

第11回

師行が手にした津軽内摩部郷

第12回

師行の津軽出動と中先代の乱

第13回

師行文書の終焉と尊氏の謀反

第14回

顕家の第一次西上作戦

第15回

師行出陣と尊氏の九州下向

第16回

尊氏の復活と南北朝時代の幕開け

第17回

顕家の第二次西上と師行・顕家の死

第18回

後醍醐の死

第19回

顕信奥州に登場

第20回

津軽・糠部方面の戦いの終焉

第21回

北関東と南奥の情勢

第22回

多田系和賀氏の発祥

第23回

政長の死
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