総社古墳群探訪② 総社古墳群で前方後円墳としては最後に築造された古墳・総社二子山古墳

 この記事は、2015年5月4日から2泊3日で探訪した群馬県前橋市の歴史めぐりの様子を当時のブログにアップしたものをこちらのサイトに再アップするものです。

 文章はほとんど当時のものと一緒で、古い内容が含まれていますのでご了承ください。

 補足が必要な場合は、それと分かるように追記します。

 


群馬県前橋市の総社古墳群探訪【2015年5月4日(月)】

イントロダクション → 総社二子山古墳 → 総社愛宕山古墳 → 光巌寺 → 宝塔山古墳 → 蛇穴山古墳 → 総社城跡 → 遠見山古墳 → 山王廃寺跡 → 上野国分尼寺跡 → 上野国分寺跡 → 妙見寺および妙見社 → 上野国府跡 → 蒼海城跡 → 宮鍋神社 → 大友神社 → 総社神社 → 石倉城跡 → 王山古墳 → 前橋城跡 → 前橋八幡


 

上野国府誘致勢力の墓域に進入


 それでは、総社古墳群へ向かいましょう。

 群馬総社駅をでて、南に延びる道を歩きます。

写真1 南へ


 おや、神社がありますよ。
 
 説明板を見ると立石諏訪神社とあり、社殿は最近造り直したようですね。

写真2 立石諏訪神社

 
 神社の創建時代は江戸初期で、獅子舞が前橋市の指定重要無形民俗文化財に指定されているそうです。
 
 ただ、私は着目したのは「立石」という地名です。
 
 これは古代の道の近くにありがちな地名なのですが、現在のところまだその辺については調べがついていません。
 
 県道15号線を東へ向かうと、すぐに「二子山古墳」を指し示す標識がありました。
 
 標識に従って右折すると、前方にこんもりとした森が。

写真3 総社二子山古墳の森

 
 あれがそうでしょう。
 
 近づくと、目の前に墳丘が現れました。

写真4 総社二子山古墳


 よし!
 
 説明板も設置してあります。

写真5 総社二子山古墳説明板


 総社二子山古墳は総社古墳群に含まれる古墳で、墳丘長89.8mを誇る古墳時代後期の前方後円墳です。

 古墳の向きはこの図の通りで、右が後円部、左が前方部です。
 
 「史蹟」の標柱が神々しく佇立していますね。

写真6 標柱


 通常史蹟(史跡)といった場合は、国指定のものを指します。
 
 つまり国家が未来永劫に渡って保存を決めた歴史スポットというわけです。
 
 古墳王国の群馬県には史蹟の古墳が17個もあり、その一つがここ総社二子山古墳です。
 
 なお、「二子山古墳」という名前は全国に沢山あるので、地名を現す「総社」を冠して呼び名としていますが、正式な史跡名は「二子山古墳」です。

 ではさっそく墳頂を目指すと、2段築成になっているのが分かります。

写真7 2段築成の2段目テラス部分


 さらに上がり、後円部の墳頂から前方部を見ると、ほとんど高低差がありませんね。

写真8 後円部の墳頂から前方部を見る


 南東側の至近に見えるのは次の目的地である総社愛宕山古墳でしょう。

写真9 総社愛宕山古墳を見る


 墳丘から周りを眺めると、住宅が1~2軒立つ広さで古墳を全周するように等幅の帯状の区割りがあります。

写真10 帯状区割(写りこんでいるボールペンの先端は気にしないでください)

 
 入口の説明板にも周溝があると書かれていたので、周溝の跡でしょうか。
 
 総社二子山古墳には紫色の花が咲いています。

写真11 紫色の花


 見渡すと、墳丘のところどころに咲いていて、綺麗ですね。

 テラス部分に降り、前方部側から後円部側を見ます。

写真12 テラス部分


 墳丘から降り、周辺を探ってみると、先ほど見た帯状の区割りの外側にも周溝跡に見える地形があります。

写真13 この辺も周溝跡か


 周溝が二重だったとは、手持ちの資料にはどこに書いてありませんので、こちらが周溝跡でしょうか、もうちょっと調べてみます。

 

総社古墳群の築造順

2020年4月3日 改訂

 今日はこの後、総社古墳群では、愛宕山古墳、宝塔山古墳、蛇穴山古墳、遠見山古墳、そして時間があれば王山古墳をめぐる予定です。

 二子山古墳とそれらの古墳を築造順並べると、最初は6世紀初頭に造られた王山古墳で、つづいて6世紀第3四半期~第4四半期にこの総社二子山古墳ができて、以降、終末期の7世紀に方墳の総社愛宕山古墳、宝塔山古墳、蛇穴山古墳と続きます。

 問題は調査がされていない遠見山古墳と、王河原山古墳という調査されずに湮滅してしまった前方後円墳の位置づけですが、王山古墳と総社二子山古墳の間が少し空いているので、この2基がそこに入りこむ可能性があるとの指摘が従来からありました。

 しかし、最近の前橋市の見解では、遠見山古墳の築造時期を王山古墳よりも前と考えており、湮滅した王河原山古墳を除くと、下図のように考えています。

『東国の雄 総社古墳群』(前橋市教育委員会/編)より転載

 

総社二子山古墳と同時期の近隣勢力との関係

2020年4月3日 改訂

 総社二子山古墳は、この地域で造られた最後の前方後円墳ですが、そもそも中央では6世紀の最初の頃から徐々に前方後円墳は造られなくなってきており、6世紀におけるこの規模の前方後円墳の数は、大和や河内といった中央よりも、上野の方がはるかに多いのです。
 
 その理由はまだ解明されていませんが、単に流行の伝播が遅いということでは無さそうで、何かしら政治的な意味があったと考えられます。
 
 総社二子山古墳が築造された6世紀後半の時点では、その被葬者はこの地域の有力者であったことには間違いありませんが、もう少し広い範囲で見てみると、高崎市の綿貫観音山古墳(墳丘長97m)の勢力の支配下にあったようです。

綿貫観音山古墳


 そう考えられる理由としては、石室の構造に綿貫観音山古墳との共通点が見いだせることと、綿貫観音山古墳から出土した頭椎大刀と瓜二つのものがこちらからも出土しているからです。
 
 綿貫観音山古墳を盟主とする領域は、おおむね広瀬川(当時の利根川)とその支流烏川とに挟まれた地域で、その地域にある前方後円墳はみな同じ形式を持っており、その範囲から外れるとまた違う形式となります。
 
 古墳の大きさからすると、その勢力範囲内では総社二子山古墳は2番目の規模なので、この被葬者は同勢力内で綿貫観音山古墳の被葬者の右腕的存在だったかもしれません。

 さらに、他地域の勢力の動静を探ると、利根川支流の粕川流域勢力として前橋市内にある大室古墳群の存在がありますが、この勢力は6世紀初めごろに墳丘長94mで二重周溝を持つ前二子古墳を築造し、続いて築造された中二子古墳の墳丘長は111mまで拡大し、これも二重周溝を持つことから、大きな力を持っていたことが分かります。

 ところが、総社二子山古墳と同時期に築造された後二子古墳の墳丘長は85mとなり、周溝も一重となっていることから、少し力を落とします。

 とはいえ、この時点では総社古墳群と同じくらいの力を持つ、一方の雄であったことが分かります。

後二子古墳

 さらに、5世紀後半から隠然たる力を持っていたと考えられる高崎市の八幡古墳群では、総社二子山古墳より一世代ほど遅れる形で、全長15.8mという巨大な横穴式石室を備えた観音塚古墳を築造し、存在感を見せつけています。

観音塚古墳の横穴式石室

 八幡観音塚古墳群の素晴らしい横穴式石室を見ると、総社二子山古墳の石室はどのようになっていたのか大変興味深いですが、後円部と前方部にそれぞれ1か所ずつある石室は、後円部の方が大きく、残存値で全長が9.4mです。

 ただし、玄室の大きさは6.8mあることから、石室内で最も重要だと考えられる玄室の大きさを見ると、総社二子山古墳の石室も決して小さいとは言えないでしょう。
 
 このように6世紀の段階では、近隣には大きな勢力が拮抗している状況でしたが、7世紀になると俄然総社古墳群の勢力の存在感が増し、やがて律令国家が国府を設立する際にはそれを自分の勢力圏に誘致することに成功します。
 
 それでは、次に総社愛宕山古墳へ行ってみましょう。

 


群馬県前橋市の総社古墳群探訪【2015年5月4日(月)】

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参考資料

  • 現地説明板
  • 『群馬県史 資料編3 原始古代3』 群馬県史編さん委員会/編 1981年
  • 『群馬県史 通史編1 原始古代1』 群馬県史編さん委員会/編 1990年
  • 『多摩のあゆみ 第八十八号』 1997年
  • 『古墳とヤマト政権』 白石太一郎 1999年
  • 『季刊考古学・別冊17 古墳時代毛野の実像』 右島和夫・若狭徹・内山敏行/編 雄山閣 2011年
  • 『東国の雄 総社古墳群』 前橋市教育委員会/編 2017年

投稿者: 案内人

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